御深井焼15-「尾張焼」ってナンダ?その4

ご無沙汰しております。

間が空いてしましましたが…「尾張焼」についてはここで一旦の区切りを打ちます。

おさらい

前3回の続きです。

どうやら尾張では「茶入」を作って、僧侶や公家階級の人たち相手に贈り物として送っていた、という状況が見えてきました。

年代的にも他の古文書(森田久右衛門日記)にでてくる「尾張被仰付候焼物所~~~茶入かま也」と、おそらく同一のモノだろう、と考えられます。

が、この他にもまだ「尾張焼(尾州焼)」が出てきます。

どうやら茶入だけではななかったようなのです。

寛文7年(1667)六月十五日

陰々、不雨。祝聖・開山諷經・日中予令焼香也。自行事、歸、喫齋也。自勸修寺亞相〔經廣〕公、如例年、明日嘉定〔祥〕之祝儀丁々壹器六合給、書状來、於晴雲軒、遣返事也。自江州日野大助〔市橋〕、飛脚来、自大助、書状来、市橋下總守〔政信〕殿返事届。自田中惣左衛門亦、於吉權・同権兵衛、而亦書状来、即返書調、相渡也。柚岡宇右衛門於晴雲、而來、自江戸、上洛仕之由也。尾州焼之茶椀〔碗〕壹ヶ惠也。予歸山之節、於晴雲之門外、相逢也。自熊田長右衛門、道明寺糒袋惠之也。匂袋壹ヶ充、贈今小路〔御屋知〕殿與芝山黄公〔宣豊〕内方〔御世根〕也。日野江返事遣之次、匂袋兩ヶ遣大助方也。今井玄貞被來、香薷散持参也。相對、糒、點濃茶也。

鳳林承章は僧侶ですので、様々な法要、行事についても日記に記しています。この日は「嘉祥」という餅をお供えして疫病を払う行事の前日であり、勧修寺経広から祝儀を頂戴し、近江仁正寺藩主・市橋政信や田中惣左衛門との書状のやり取りがあった中、江戸からの来客で袖岡宇右衛門が晴雲軒にやってきました。

「袖岡宇右衛門」という人物は、この日記には頻出する人物であり、承応2年から度々、鳳林和尚に「御室焼」の器物を贈っています。寛文7年の条に「自江戸、上洛仕之由」とありますが、どこかの藩に仕えた武士階級の人物なのでしょうか…?いずれにせよ、頻繁に鳳林和尚と交流していることは間違いなく、焼き物に何かしらの関わりがあった人物です。

そんな人に「尾州焼之茶椀〔碗〕壹ヶ惠也。」とあります……茶碗?

いつどこで貰ったのか、膨大な日記の中から探すのや手間なので探し切れていませんが…いずれにせよ茶碗を「恵む也」、つまり贈ったようです。

尾州焼之茶椀…例によって、その姿形を想像できるような情報はほぼゼロ(´Д`;)

どんな茶碗だったのでしょう?気になりますねー。

分かること・分からないこと

いずれにせよ、一つ言えることは「茶入だけを焼いていたわけではない」という情報ですね。

そして気になる点が1つ。「尾張焼」「尾州焼」の表記についてです。

僕は最初、この表記のブレは特に気に留めず、同一のモノとして見ていましたが…。

過去の日記を見ると「尾張焼」というのは茶入にしか冠していないんですよね…。

「尾州焼」は風炉・皿・茶碗などなど、器種に違いがみられますが、「尾張焼」は茶入のみ。

いかんせん、サンプル数が少なすぎて、何とも言えませんが…実は表記がブレていたのではなく、「あえて書き分けていた」という可能性を感じなくもないです。

一般的に「尾張」と「尾州」の言葉は同一のモノと考えて差し障りないと思います。が、「尾張」を「尾張藩」という行政区分、「尾州」を「尾張地方」という地域名、と分けてとらえることも、できなくもない…です。

もしかすると、尾張藩の「城で焼かれていた茶入」は総じて「尾張焼」と表現し、それ以外の「尾張地方の焼き物」は「尾州焼」というように表現を変えて、区別していたのでは…?

つまり、瀬戸で焼かれたものも尾州という括りに含まれる…え、じゃあやっぱり尾州焼は…瀬戸?

うーん、考えすぎの予感がしますので、ここら辺で止めておきます(苦笑)

妄想の域をでない話、完全に思い付きの戯言です。真に受けないように…。

もうさすがにまとめましょう

気づけばもう1年もやってる…勉強部屋「御深井焼」シリーズ。

次回はいつ更新できるかわかりませんが…まとめの回とするつもりです。

長かった…。(;´Д`)

【特集】”オフケ”ってナンダ?

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