御深井焼-御深井釉ではない焼き物

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急に寒くなりましたね。体調崩さないように、お気をつけください。

さて豊楽焼にキリを付けたので、御深井焼、どんどんやっていきましょう。

御深井釉だけじゃない?名城・御深井焼

「下御深井御庭で焼かれた」→御深井焼(文字通り、名古屋城の焼き物)

「御深井釉が掛けられた焼き物」→御深井焼(名古屋城だけでなく、美濃でも焼かれている)

ここまでは、ちょっと小難しいですが分かりやすいはずですよね?

御深井釉という名前は、下御深井御庭で焼かれた焼き物から来ている。

ルーツは美濃かもしれないけど、メジャーになったのは御深井焼のほうだった、と考えるのが妥当でしょう。

「でも実は名城・御深井では御深井釉じゃない焼き物も作られていた?」

おいちょっと待てよ、というツッコミは覚悟の上です。

御深井で焼かれた器の釉薬が御深井釉なのに、それ以外の焼き物が焼かれていたらのなら、それはもう・・・どういうこと?

さあ、ここからは、なかなか踏み入れた人が少ないであろう、ディープゾーン

ライトな骨董マニアに御深井焼でこの話をしたら、「君、ずいぶん味噌まるけだね?」とドンビキされること請け合いです♪

ようこそ沼の淵へ♪

「下御深井御庭」の内容だと、さも「名城・御深井焼では御深井釉の焼き物しか作られてない」みたいな印象を受けるかもしれませんね。

まあ実際、そういうイメージを持つ人が多いでしょうし、それを狙って記事を作った節も有ります(ここで伏線を回収するため)。

しかし実は違うかもしれない・・・という、今回は「いまだ全容が解明されていない、フワフワなお話」です。

さて潜りますか。

昔の記事なので、忘れちゃった人は「御深井焼-ルーツを探れ」を読み直したほうがいいかもしれません。

思い出して下さい。下御深井御庭で作られた焼き物に関するキーワード。

祖母懐土瀬戸山贈答品

「御深井釉」は美濃で始まったものだろうけど、名前は「下御深井御庭」に由来するものだろう、というのは分かりました。

実際に御深井釉のかかった大花瓶に、「光友」の銘がいれられ、尾張藩から寄進された謂れも残っていることですし、この手の焼き物(御深井釉の焼き物)に尾張藩が関わっていたことは間違い有りません。

しかし・・・「御深井焼」という名前がいつ頃から使われだした名前なのか、そこが不明瞭なのです。

それゆえに、初期の御深井焼については「御深井釉の焼き物だけだったのか?」と思わせる、いくつかの疑惑・疑問点が残されています。

疑惑その1

まず「祖母懐土」というキーワード。

この土、実はかなりウルサイ土でして、どういう土かというと…

祖母懐土

『陶祖・藤四郎(加藤四郎左衛門)が瀬戸・祖母懐の地で陶器に適した土を見つけ、この土を使って陶器を作るために瀬戸に定住した』という『伝説』が伝えられる土。この伝説の評価についてはひとまず置いておいて・・・。この土は木節粘土と呼ばれる分類の粘土で、「きめ細やかながら、粘性に富み、可塑性に優れる(形が崩れにくい、形を保ちやすい)」という特徴を持つ。鉄分が多く含まれ、焼成すると赤黒く焼き締まるこの粘土は、轆轤成形による薄造り・複雑な変形を可能とし、なおかつ焼成すると頑丈なので、茶入の生産にはうってつけの土だったと考えられている。

そんな土を尾張藩で独占したという記録が残されています。しかも御城の蔵にわざわざ運び込んでいます。

「茶入の生産にうってつけの土」を使って、何を作ったのか?

疑惑その2

疑わしいというよりよりか、意味深なのが「瀬戸山」という名前。

尾張の殿様が住まう名古屋城。その外郭・下御深井御庭という場所に、なぜ「瀬戸」の名前を冠した山(窯場)があったのか?

もともと、「瀬戸山」がそこにあったわけではありません。名古屋城の造成にともなって出来た池を囲むよう、江戸初期に作られた庭園の一部、つまり人工の丘陵地。そこに名前が付く、ということは、名前をつける行為そのものにも「人為」があるのではないか?

自然発生的な解釈をしようと思えば、それらしい解釈はいくらでもできます。「瀬戸の陶工がここに集められ、御深井焼に従事した場所だから」とか「瀬戸の祖母懐の土を使い、ここで焼成を行ったから」とか・・・。でも、それなら「御深井窯」だとか「祖母懐窯」みたいな名前でもいいんじゃない?

むしろ「瀬戸」と呼ばれる地域が、藩の領内にすでにあるのに、その飛び地のように「瀬戸山」が名古屋城下にあることのほうが、不思議な感じがします。

僕は上記の「祖母懐の土」を考慮に加えると、この「瀬戸山」というネーミングに、尾張藩の「ある思惑があった」ように思えるのです。

疑惑その3

「ある思惑」についてはちょっと脇に置いておいて・・・「贈答品」の内容について。

例の寺に寄進された「御深井釉大花瓶」。これを贈答品としてもらってどうでしょう?まあ、お寺としては仏様にお供えするための仏具として重宝されるでしょうが・・・「こんなデカイのはちょっとなぁ・・・」と思っちゃうのが、小市民の僕の印象。

「何であれ、お殿様からいただければ大変な名誉である」という感覚は、町人・農民・下級武士レベルのお話。

これが「他藩の大名」や「都の公家衆」であれば、どうでしょう?もっと他に、ほしい物、貰って嬉しい贈り物、ありそうじゃないですか。

ちっちゃいけれど持ち運びに便利で、なおかつ高級で、イイ感じの陶器・・・。

……茶入があるじゃん。

お宝といえば、やっぱコレでしょ。贈答品でもらえたら、スゴイ喜ぶんじゃないかな?

こんな小さいのに、メチャ高価、激レア、みんなが欲しがる、超憧れアイテム☆

江戸期に入り、武家の間で茶道は「公式行事」としての意味合いが強くなっていき、そのため「お茶の作法を身につける」ことや、「お茶会の道具を揃える」ことは、藩にとって欠かせないものとなっていきます。

茶入がもらえたら、さぞかし嬉しいでしょうね。

尾張藩の「思惑」

いくつかの疑問点と浮かび上がってくる疑惑を統括して、尾張藩の「思惑」を大胆に想像してみます。

それは「『瀬戸』というブランドを利用する」ということだったんじゃないかなぁ・・・と僕は思うのです。

江戸初期、大いにもてはやされた桃山陶が急速に退化していく時代の流れに対し、武家の間で「茶道」は公式行事として形式化、儀式としての重要度をましていき、「茶入」はなおも貴重で、重要視された存在だったに違い有りません。

全国各地で国焼の窯(遠州七窯や御室焼)が勃興、しかも小堀遠州や金森宗和などの茶人の指導を受け、優美な茶陶を生産しています。まだ仁清を名乗る前の野々村清右衛門が、轆轤の名手らしい薄手の茶入を御室窯で生産していますよね~。

つまり、そういう茶陶の需要が、高い身分の人たちの間で高まっていたことの証左だといえるのではないか?

また、この時代、すでに茶入における「古瀬戸」と「瀬戸」の区別がなされており、茶人の間では「瀬戸」という言葉が、ある種のブランド的存在にまで高まっていたように感じます。

尾張藩としては、新興の国焼にネームバリューで負けないよう「御深井」ではなく「瀬戸」という既に全国で通用するブランドを生かし、なおかつ大名や公家の間で需要の高かった「茶入」を進物として贈ることで、贈答品としての最大の効果を狙ったのではないのか?

その当時、尾張藩からの進物として贈られていたのは「(下御深井御庭で焼かれた)瀬戸茶入」なんだろう、という考察が今回のお話。

「瀬戸」の名を進物に冠する目的がある以上・・・

やはり陶工は瀬戸で仕事をしなければならないし(美濃から瀬戸に陶工を呼び寄せ)・・・

土も瀬戸の最上のモノを藩で独占的に使っていたし(祖母懐の土を蔵に運び入れ)・・・

そして窯がある場所 は・・・「瀬戸山」と名づけられた。

それゆえに「御深井焼茶入」というものは、後世に残っていない・・・のではないか?

御深井の名前が使われ始めたのは、もう少しあとの時代・・・(19世紀前半から?)なのかな?

沼地にハマってさあ大変

わかったような、わからないような。

一般的に、御深井焼に対してこういうイメージはもたれていないから、なかなか受け入れてもらえない話かもしれません。

結局フワっとした話に終始しましたが・・・そもそもこれ、「話のベースが状況証拠に基づく推測」という、吹けば消し飛ぶ脆弱なお話なのです。

まあ、骨董の世界・男のロマンって、そういうモノかもしれないですけど・・・。

でも、この初期の御深井焼について、非常に重要な証言が残されているのです。

次回はそのお話。

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