『祖母懐』って何だ?
ご無沙汰しております。
単発の勉強部屋です。
最近、コメント欄を通じてちょっとしたやり取りがありまして…。まあ結局そのコメント自体は内々の事、ということで非公開にする運びになったのですが…せっかくなのでこのネタを今一度、整理しておこうかな、と思います。
「祖母懐」とは?
「そぼかい」と読みます。古い読み方だと「うばがふところ」とも読んだそうです。
もともと古い地名であり、現在も瀬戸市の町名(祖母懐町)として現存しています。県道33号線の通る交差点の名前でもありますね。
この「祖母懐」という言葉は、三方を丘陵に抱かれ正面が日向にあたっている地形を指す語だといわれます。周りを丘陵に囲まれて、あったかい場所がさながら「乳母(うば)の懐」のようである、ということなんでしょうね。
「地名用語語源辞典」では違う切り口で紹介しており、「祖母・姥(うば)」というのは「崖」に関する地名に用いられる言葉の一つで、この「姥が懐」というのも「崖で土が露出した場所」の意味だとしています。「祖母・姥」を冠した崖の多い地名は全国各地に存在し、この祖母懐も元々はそういう崖を指して呼んだ地名だという考察は、個人的にはかなり納得感がありますね~。(※理由は後述)
いい土がとれる場所
そんな祖母懐はある理由で有名な場所になります。
日本の焼き物の陶祖・藤四郎が諸国を巡歴ののち、この瀬戸・祖母懐の地で良質な陶土を発見し、瀬戸永住の意を決した。
と伝えられる場所なのです。
まあ、これはあくまで【藤四郎伝説】として伝えられる話ですが…実際に良質な陶土が出たのは間違いないようです。江戸時代、尾張藩がここの土をごっそり掘り出して、名古屋城の御蔵まで運び出し、この地には禁制の札を立て、「御留土」として藩の御用以外には使えないよう独占したのです。
過去の勉強部屋でもご紹介しましたね。
この良質な陶土を「祖母懐土」と呼んでおります。尾張藩では古くからこの土を用いて焼き物を生産しており、後の時代にはこの土を使用した証に彫銘を刻んだり、「祖母懐」の印を捺しており、それらが現在にも伝わっているのです。
こういう陶土が見つかるのは、よほど偶然が重ならないと難しいのでしょう。
たまたま、崖で地層が露出していたので、それを掘り出して試しに陶土を練ってみたら、いい感じで轆轤が引けて、上手な焼き物ができた…こんなストーリーが浮かびます。「姥」が「崖を意味する場所である」ということに僕が納得感を感じるのは、こういう必然性があるからです。
だって、何もない地面を掘り返して、『焼き物に適した土を探そう!』とは、中々思わないでしょ…。崖でたまたま地層が露出していた、というのはありそうな話じゃないですか。後に尾張藩が独占して、禁制の札を立てたのも、「崖で露出していて、誰でも簡単に掘り出せちゃう場所なので」という理由を加味すれば、より納得感があるわけです。
まあ…実際はどうだったのか、分かりませんけどね~。(現在の祖母懐町よりもやや南にその採掘場があったと聞きます)
どんな焼き物があるのか?
先述したように、尾張藩が「御留土」として以降は、藩の正式な御用でないと使えないはずです。
一般人が勝手に使おうものなら、「おみゃー、なにしとんじゃあ!」と、お叱りを受けるはず。なのでそもそもこの土を用いた焼き物自体、数が少ないでしょう。
さらに「御留土」として以降は、名古屋城の下御深井御庭にあった窯で用いられていたと考えられ、初期の頃は「茶入を焼いていた」という証言が残っています。なので初期の作例としては「茶入」が中心だろうと思っています。もちろん銘や印などはありません。
そこからさらに時代が下ると、茶入以外のものも作られるようになります。
また、尾張藩が名古屋城の御蔵に運び出した御留土のストックも次第に減っていくでしょうから、大事に大事に、少しずつ使うため、「祖母懐土100%!」というような、単味の土で焼き物を作ることはしなくなったのだろうなぁ…と想像します(そもそも当初から単味じゃないかもね)。つまり、初期以降は他の土もいろいろブレンドして使ってる、ということです。
このころになると、すっかり「祖母懐土」という名前自体にブランド価値が認められるようになり、他方で尾張藩の焼物には「下賜品」としての役割を帯びてきます(過去の勉強部屋で紹介した内容とほぼ一緒です)。尾張藩としては、これを利用しない手はない…ということで「祖母懐」の印を作り、これを焼き物に捺して、様々な器を焼きました。これが現在、目にすることができる「祖母懐印」が捺された焼き物です。
僕が知る限り、この「祖母懐」の印は数種類あります。そのうち、はっきりと尾張藩の関連だろうと分かるものは2種類です。一つは御深井焼で用いられた印、もう一つは江戸で焼かれた尾張藩の御庭焼、楽々園焼で用いられた印です。(このほかにも「???」という祖母懐の印がありますが…)
この「祖母懐」というブランドは後世になっても模作・贋作が作られており、一概に印があるから「尾張藩公式だ!」という訳ではありません。また印ではなく「以祖母懐土造」のような彫銘のモノも、ときより見かけますが…果たしてその彫銘以外(プラスα)にどれだけ真実味を感じられるか…というところでの判断になってきます。例えば彫銘に加えて、「加藤春岱の印」があるとか。そういうモノであれば、多角的に判断して確かなモノだろうなとは思います。
江戸よりもさらに昔の話であれば、そもそも尾張藩はまだ存在しておらず、禁制もなく、そういった彫銘単体のモノもあったかもしれません。「誰でも使えた時代」は確かに存在するので…。藤四郎伝説があるぐらいですから、ひょっとすると遥か昔から祖母懐は有名だったのかもしれません。しかしその程度で「祖母懐」という彫銘をするか?という疑念は残ります。僕はどうしてもロジカルに考えてしまうので…「なら『藤四郎』とか彫るもんでは?」と、思ってしまうのですけど…。
情報、もとむ…
この祖母懐の印、実は印章本体が現在の徳川美術館に残っているのです。ゆえに印を用いていたことは揺るぎない事実です。
ただしこの印章はね…江戸後期に正木惣三郎が尾張藩に返納した「戸山焼・楽々園焼」で用いていた銀印だろうなぁ…と個人的には考察しているんですけどね。
どっかで「盤桓子が書体を起した祖母懐印」の話を聞いたのですが…その話の根拠がまるでさっぱり分からんので、話半分にしか僕は信用してないのですが…どうやらそういう印章もあったようです。(このネタ知ってる人がもし読んだら、ぜひ教えてほしいです!)
まだまだ、分からん事がいっぱいですね…。