御深井焼08-ステータスとしての名称

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予定が押しています。校正もそこそに急ピッチで進めます。

前回は尾張藩がさまざまな場所で焼き物を作るため、御窯屋を整備し、この人たちが御深井焼に深く関わっていたことをご紹介しました。

そして時代の変遷とともに、御深井焼の果たす役割も変化していきます。今回はそんなお話。

御深井焼の役目の変遷

これまで勉強してきた、御深井焼(尾張藩の焼き物)の流れをおさらいしつつ、18世紀~19世紀の御深井の実態を見ていきます。

まず尾張藩が出来た当初から、瀬戸での窯業を再興するために尾張藩が様々な手を尽くします。美濃から陶工を呼び寄せ、御窯屋という特別な地位を与える代わりに、瀬戸だけでなく名古屋城の下御深井御庭にも窯を築きました。さらには瀬戸から上質な土も取り寄せ、御庭にある瀬戸山という窯で焼き物を生産します。

当初の目的は「贈答品」としての陶器を自前で作るため。贈答品としての焼き物は、新たな尾張の統治者としての権威を様々な階層の人たちに示す役割があったと考えられています。また藩で用いる生活雑記、さらには上士や高位の来賓をもてなすための器・茶道具も御窯屋を通して生産していました。

どちらかというと趣味・風流というよりも政治・接待の為の手段、手法といった側面が大きかったのです。時代が進むと、お殿様が陶器の制作現場を視察したり、徐々に趣味・楽しみとしての側面も現れるようになります。

下賜品としての役目

そして18世紀後半~19世紀にかけて、尾張藩に仕える家臣たちへの「下賜品」として、御深井焼が褒美として与えられるようになります。

ちなみに当初の「贈答品」とは、訳が違います。「贈答品」は、地位が同等、もしくは上の相手に対して贈る物。

それに対して「下賜」とは、高貴の人から、身分の低い人に物を与えること。

同じ贈り物でも、ニュアンスの違いがありますね。江戸時代は身分社会ですから、手段としては同じでも、目的や意味することが変わってくるのです。

時代の背景から考える

どうして「下賜品」が必要になったのか?

まず18世紀後半~19世紀の時代背景。尾張藩の財政状況があまりよろしくありません。6代継友や8代宗睦のころは質素倹約の時勢にありながら、黒字になるほど裕福な藩でしたが、やはり天災による被害などが続くと、財政状況は悪くなっていき、慢性的な赤字財政になっていきます。

藩の財政が厳しくなると、まずしわ寄せが行くのが藩士への俸給です。

藩士への俸給は減らされても、お仕事はきちっとやってもらわなければなりません。そこで俸給以外の何かで、藩士たちになにか褒美をあげよう、ということになるわけです。

では褒美は何がいいか。焼き物を作らせて、それを下賜しよう、となったわけですね~。

さらに当時の茶の湯文化への関心の高まりも、これを後押ししています。かつての勉強部屋・「尾張の茶の湯」シリーズでもご紹介しましたが、18世紀から町衆層にまで茶の湯を嗜む人たちが増えてきています。町衆だけでなく、武士たちの中にも風流を楽しむ人たちはでてきており、尾張では城下町が町衆の生活空間だったということもあってか、武士と町衆でのお茶を通じたかかわりも一部みられたようです。

お茶を楽しむ武士たちも、いい道具がほしい…。でも俸給減らされて、道具を揃える資金もない…。

そんな武士たちに「これは当家伝来の名品を写した茶碗である。褒美として進ぜよう」となりゃ、気分はアガりますよね!(>∀<)

瀬戸で御窯屋に作らせた下賜品

ここから重要な話に差し掛かります。

御窯屋に残された古文書の中に…

尾張藩の役人から焼き物の発注を受けたり、御窯屋が瀬戸で人を雇っていた

そんな記録が残されていることがわかり、そこから「御窯屋は瀬戸で尾張藩からの注文品を作っていた」と考えられています。

それも結構な数(薄茶茶碗・300?!など)の注文です。んな大量に…。

ここに「下賜品」というピースがはまることで、この大量注文の訳が透けて見えてくるわけです。

つまり「下賜品として渡す焼き物を、瀬戸で御窯屋に作らせていた」ということなのです。(それ以外にこの大量注文の理由が説明できません)

御深井焼の中に瀬戸で作られたものが含まれる訳

こうして、尾張藩から注文を受けた茶碗は瀬戸で作られ、尾張藩へ納められれます。これを茶会に使ったかもしれませんし、使っていないかもしれません。ただ、納められた道具は後に尾張藩から家臣たちへの褒美として、下賜されていったであろう、と考えられています。そりゃ300もの茶碗、使いきれるワケがないですよねぇ。

「瀬戸で作られ、尾張藩に納められた後、下賜された道具」

これを一体、何と呼ぶでしょう?

生産地の名前を冠するなら、「瀬戸焼」なのでしょう。

また釉薬の特徴を差すなら、「志野茶碗」「黄瀬戸香合」なのでしょう。

しかしこれも「御深井焼」と呼ぶのです。

初期の話とは分けて考えなければならない

ややこしいところなので、じっくりいきます。

「ディープなお話」で、「瀬戸と呼んでいるけど、実は御深井で作られていたんじゃないか?!」という疑惑をぶち上げましたが…。

初期の頃は「藩が主体となって」、瀬戸のブランドを利用した疑惑がある…という話でした。

一方、18世紀~19世紀では、「藩から下賜を受けた側」が重要なのです。

つまり「これは尾張様から拝領した道具である」ということを主張したいわけです…下賜を受けた側の人間が。

となると「瀬戸」ではこの意図がスッと通らないのです。

「尾張藩から下賜された道具」であることを、もっとも適格に表現する言葉なので「御深井焼」と呼ぶのです。難しいですねー。

多彩すぎるバリエーションゆえの分かりにくさ

こうした「下賜品」としての生産需要を受けてなのか、19世紀から瀬戸では目覚しい技術の発展が見られます。

18世紀後半~19世紀の「御深井焼」と呼ばれている道具たちは、志野黄瀬戸織部の復興桃山の系統に、鉄釉(瀬戸釉)灰釉(いわゆる御深井釉)卯之斑釉(うのふ、と読みます)、さらには三島写唐津写安南写などなど、非常にバリエーションに富んでいます。(これが瀬戸という一大窯業地の凄いところであり、瀬戸のイメージがボンヤリしてしまっている原因にも思えますが…)

なので作品の特徴で「御深井焼」を説明するのはほぼムリです。

焼かれた場所が御深井だろうが瀬戸だろうが、釉薬が御深井釉だろうが志野だろうが、「尾張藩から拝領した」ということは揺るがない。

だから作品の特徴で分ける意味は無い…。

「○○焼」の名前でパッとイメージが思いつく名前ではないのは、こういった事情があったのです。

……では、なぜこれらの焼き物が「御深井焼」と分かるのか?

尾張藩公認の「印」があるからなんですねー。

ステータスとしての「御深井焼」

尾張藩が褒美として与える焼き物。これが一種のステータスとなるのです。

しかし作っているのは瀬戸の陶工です。瀬戸に行けば、多少の違いはっても、ほぼ同じものが作ってもらえるでしょう。(実際、藩士の中には自分たちで好みの陶器を作って、お茶を楽しむ人たちが現れるのですが…)

尾張藩としてはそんなことされちゃ、困る

「御深井焼」であることを主張し、ありがたみを感じてもらう必要がある。そこで「印」が登場するんですね。

さて、これまで順を追って、「御深井焼とは何だ?」ということを勉強してきました。

長かったですねぇ……。

「名古屋城・下御深井御庭で焼かれた陶器」

「御深井釉が用いられた陶器」

ここに、もう一つの切り口が加わります。

「尾張藩公式の焼き物」

そしていよいよ、次回から、尾張藩公式の焼き物である、在銘・御深井焼ワールドに突入します。

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