御深井焼07-御窯屋のお仕事

すっかり月イチ更新になってしまいました・・・まずいです。予定が押しています(汗)

前回のおさらい

17世紀(1600年代)に始まった、名古屋城の御深井焼。18世紀になって、少し様子が変わってきました。

前回はその様子を伝える史料として、尾張藩の窯業に深くかかわっていた御竃屋の一家である「加藤唐三郎家文書」をご紹介しました。

話を進めたいけれど、またちょっと時代をさかのぼります。

実は御深井焼と切っても切れない関係である「御窯屋」

やはり御窯屋についても触れておかなければ、御深井焼を理解するのは難しい…。

今回は「御窯屋」を掘り下げていくことにしましょう。

今一度、御窯屋とは?

ルーツを辿ると、こちらも初代・義直(実質的には家康)の時代にさかのぼります。

美濃から召し寄せた陶工たちによって、瀬戸での窯業を復活させたのが始まり。その中の加藤利右衛門(後の唐三郎)加藤仁兵衛が瀬戸の土地(家・窯場・細工場)を拝領し、苗字帯刀を許され、年貢・諸役を免除され、この二人は名古屋城・御深井焼にも従事しました。

さらに二代・光友の時代になると、名城・御深井焼のお仕事だけでなく、江戸の御屋敷でのお勤め(戸山焼・楽々園焼)にも従事し、さらには光友が潮湯治(現在で言うところの海水浴)のために整備した横須賀御殿(現在の愛知県知多郡横須賀町)にも窯を築くため、そちらにも唐三郎・仁兵衛は御用で出向くことになります。

「加藤唐三郎家文書」の中には、「万治三年御庭焼増人足願扣」という文書が残されており、ここには唐三郎・仁兵衛が連名で「御深井焼・江戸・横須賀御殿のお仕事に追われて手が足りないので、どうか人手を増やして欲しい」と願い出ています。(万治三年は1660年)

この頃に加藤太兵衛が加えられ、名古屋・江戸・横須賀などで藩の御用を受け、焼き物の生産に従事します。

この尾張藩に仕えた3家の家(唐三郎・仁兵衛・太兵衛)をあわせて「御窯屋」と呼びます。

ちなみに尾張藩に召し寄せられたときの利右衛門(のちの唐三郎)仁兵衛は兄弟の関係。そして後に加えられた太兵衛も、当時の唐三郎の兄弟に当たる。つまりみんな唐三郎家の分家筋ということになります。

御窯屋のお仕事

まず名字帯刀を許される時点で、普通の陶工とは違う、特別な立場。瀬戸の赤津・品野で窯業に従事した陶工たちのまとめ役・指導者的な立場にあったことが想像できます。

その上、年貢・諸役を免除されていたということは、それなりに何か別の形で藩へ貢献をしなければなりません。その一つが「御深井焼」であったことは、これまでの勉強部屋でも採り上げてきました。

そして上述したように、時には江戸の尾張藩邸や、知多の横須賀御殿へ出向き、窯を設え、焼き物を作っています。

ここで作られた焼き物は「贈答品」としての焼き物だけではなく、御殿に住まうお殿様が、普段の生活で使うための器(生活雑器)や、上士到来の際に接待で用いる器(料理の器)などを、その土地で作っていたと考えられています。

御深井・江戸・横須賀でお勤めに加え、地元の瀬戸でも生活の為に焼き物を作らなきゃいけません。今なら名古屋から東京まで2時間もかかりません(そのうちリニアで40分とかからないスゴイ時代が目前です)が…当時は数日間に及ぶ大移動。なかなか大変だったのでしょう。

そこで太兵衛が加えられたわけです。

いちいち御深井で焼かなくても…?

さて、このあたりから話の内容は18世紀~19世紀のお話になってきます。

前回、ご紹介した「御上覧」は「見てもらうことが目的」なので、御深井の窯で実際に制作を行っているでしょう。

ところが加藤唐三郎家文書の中には、「御上覧」とは別に、尾張藩の役人から結構な数の陶器の注文を受けていたと思しき控えも残されているのです。

藩の御殿で使う生活雑器や、藩の行事として行う茶会に使う道具は、その都度瀬戸から名古屋城に出向いて作るより、瀬戸で作ったほうが素材や燃料・コストや人手の都合がよい・・・というのは想像に難く有りません。(すべてがそうだったわけではなく、あくまで一部の話)

さらに唐三郎家文書の中には、当時(享保14年・1729)の赤津村で御窯屋に従事した人たちを記録した文書(=人足帳も残されています。

その人たちと手分けして、注文があった焼き物を瀬戸で作り(もちろん「御窯屋」たちが厳選した上で)、それを藩に納めればよいのではないか…?

これらの記録の存在から、そんな御窯屋の仕事が見えてくるわけです。

御窯屋のお仕事

  • 名古屋城・下御深井の焼き物生産に従事
  • 瀬戸での窯業を再興、指導、まとめ役
  • 江戸藩邸や横須賀御殿にも赴き、窯を作ってここでも焼き物を作る
  • 藩からの命で、瀬戸でも焼き物を作って尾張藩に献上

御深井で焼いていないのに、御深井焼?

御深井焼の「志野」はしっかり溶けた長石釉が特徴

この想定だと、厳密に名古屋城・下御深井御庭で焼かれた陶器、というものを分けるのはかなり難しくなってきます。

「御深井焼」と呼んでいるけど、中には瀬戸で焼かれたものも含まれている…?

どうしてそんなことに?!

まーた、頭の中がこんがらがる、ややこしい話になってきました。

美濃の御深井(もう一つのルーツの話とは、また性質が違うお話です。

瀬戸で焼いてる?御深井で焼いてる?どういうこと?

ここは非常に重要なポイントなので、このあたりで回を分けて、次回に持ち越そうと思います。

「御深井焼」という名前に秘められた意味。

「窯の場所」の名前であったり、「釉薬の特徴」であったり、様々な意味がこめられていました。

ここにもう一つ、「御用窯」としての意味が加わります。

次回はここをしっかりとやっていきましょう。

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