御深井焼14-「尾張焼」ってナンダ?その3

夏の自由研究「隔蓂記の尾張焼」の続編です。

前々回「尾州焼白藥風炉」前回「尾張焼皿」が隔蓂記の中にでてきました。

この道具たちに関わる人物も、なにやら尾張藩とのかかわりを匂わせます。

そして今回は決定的な記述が出てきます。MMさんご指摘の「寛文五年七月廿日条」です。

寛文五年(1665)七月廿日

今日自北條右近〔氏利〕殿、被招、御茶給也。種々馳走、初更過、歸也。北條左近〔氏治〕殿・久留嶋半八郎〔通貞〕殿・小林玄周・松宮元隆・山本一雲〔運〕・前嶋加兵衛・大川檢校此衆也。茶之湯也。一昨日於尾張黄門(光友)公、而拝領之由、尾張焼之茶入肩衝自右近殿、於予、給也。

こちらも茶会のお誘いを受けて、鳳林承章がお客として参加した日記ですね。ただ茶会の道具が記されているわけではありません。

「一昨日於尾張黄門公、而拝領之由、尾張焼之茶入肩衝自右近殿、於予、給也。」

尾張黄門公とは、活字註釈にある通り、尾張徳川家2代の徳川光友のこと。もうこの頃には尾張藩を相続し、承応2年(1653)に権中納言に転任にしているため、宰相→黄門と変わっています。

「おととい、尾張徳川家の光友公から拝領したという、尾張焼の肩衝茶入を右近殿(北条氏利)から私が給わった。」

というわけで、ついに出ました、茶入です。しかも伝来の説明付き!

北条氏利がどういう経緯でこの茶入をGETしたのか…「於尾張黄門公、而拝領之由」ということで尾張で殿様から貰ったよと。

モノは「肩衝茶入」です。森田久右衛門日記の記述内容に出てきた茶入はこれだったのか・・・?

さらに茶入の記述がもう一つ。

寛文六年(1666)三月十二日

晴天。招安井算知・同知哲・同算哲・鶴屋宗有・周防之又左衛門、終日碁見物也。能在〔上大路〕・由庵〔伊藤〕・水口長兵衛被來。友世〔渡瀨〕者今日連歌之由、晩来被來也。能通〔西久松〕者今日私宅連歌之由、不被来也。柴田佐右衛門被來、尾張焼之肩衝之茶入持参、惠也。蓋・袋有之。予不對、於書院前、吸物、出盃也。今日之客初更時分被歸也。

囲会を開き、鳳林承章は終日、この碁の試合を見物しています。

(この碁打ちの中には、後の改暦に貢献する数学者「安井算哲(渋川晴海)」の姿もありますねぇ。)

そして相国寺に来客があり、そのうちの一人、柴田佐右衛門に「尾張焼肩衝茶入」を恵んで(贈って)います。「予不對」とあるので、柴田佐右衛門には直接会っていないようですが…。

また出てきましたね~、尾張焼の肩衝茶入

そして今度はあげちゃってますね。「給」と「惠」の違い。

これが先ほど紹介した北条氏利から貰った茶入と同一のモノなのかどうか、までは分かりませんが…。この日記までの期間に他に誰かから貰ったという日記も特にありませんし、ひょっとすると「そのモノ」なのかもしれませんね。

どうもこの時代、この階級の人たちの間では頻繁にモノを贈りあっているようです。

時代観の整理

さて、ここで年表に嵌めこんでみてみましょうか。

寛永11年(1634)名古屋城・上洛殿竣工、三代将軍・家光は尾張で2日駐泊して上洛。
(※御深井窯の築窯推定)
寛永17年(1640)光義(光友)、参議(=宰相)に補任し、右近衛権中将となる。
寛永20年(1643)曽谷宗喝、鳳林承章らを招き、尾州焼の白藥の風炉を用いて茶事を行う。
慶安3年(1650)義直歿、光義(光友)、藩主を継承する。
承応2年(1653)光義(光友)、正三位に昇叙し、権中納言(=黄門)に転任する。
承応3年(1654)鳳林承章、尾州焼の皿を給わる。
寛文5年(1665)鳳林承章、尾張焼の肩衝茶入を給わる。
寛文6年(1666)瀬戸において、祖母懐土・山呉須の私掘が禁じられる。
(※この前後で、下御深井御庭・瀬戸山での窯が稼働か?)
寛文12年(1672)光義、名を光友にあらためる。
延宝7年(1679)森田久右衛門一行、尾張・瀬戸に立ち寄り、尾張周辺の焼き物の話を聞く。
元禄6年(1693)光友、家督を息子(綱誠)に譲り、隠居。

このようになっております。

つまりこの日記、森田久右衛門の記録よりも前の話なんですね~。

↑森田久右衛門日記についてはこちら

祖母懐土が尾張藩で独占されたのも、ほぼ同じタイミングです。

やはり尾張藩では寛文年間に茶入の生産に舵を切ったと見るべきなのでしょうか。

そして延宝7年の森田久右衛門の記述「尾張被仰付候焼物所ハ御城の内ニ有リ茶入かま也」につながるんでしょう。

バラバラのパズルを嵌めていくと、元となった画が見えてくる、そんな感じですね~。

京都のお寺で記された「隔蓂記」と、四国の陶工が記した「旅日記」が繋げられちゃうなんて…。

当時の人たちは思いもよらなかったことでしょう(笑)

茶入を作っていたのはほぼ確実?

改めて「御深井焼」について整理すると・・・

17世紀前半の御深井焼

  • 「御深井焼」の名称は江戸時代前半(17世紀)には、まだない。
  • 尾張藩の御用窯(瀬戸or御深井)が稼動したのは、初代・義直の治世であることは濃厚。
  • 二代・光友の時代になって本格的に茶入の生産が始まった。
  • ただし茶入だけとは限らない。
  • 寺院、公卿、武家への「贈り物」として流通していた。

こういう感じの線でつなげられそうです。あくまで文献上での推測ですが…。

しかし、まだまとめるには早い(笑)

まだ「尾張焼」の記述が残っているのです。茶入だけとはいえない、次回も引き続き、「尾張焼」を探っていきましょう。

【特集】”オフケ”ってナンダ?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA