御深井焼12-「尾張焼」ってナンダ?その1

勉強部屋 コメント : 0

今年の夏の自由研究は…当ブログのコメント欄で、MMさんからご指摘があった「隔蓂記」を調べてみました!

なにやら最近、「御深井」という言葉がホットなワードらしいんですが…

僕は巷で話題のオフケとは違う「御深井」を推していこう、という所存です(苦笑)

今までの勉強部屋「御深井焼」の流れから、ちょっと逸脱して、もう一度江戸初期の頃のお話に戻ってしまいますが…。

なかなかスポットが当てられてこなかった部分ですし、分からないことが多いです。

が、非常に匂います(笑)

情報の宝庫・隔蓂記

 

この投稿をInstagramで見る

 

前田壽仙堂さん(@m.jusendo)がシェアした投稿

まずは隔蓂記について・・・。

これは江戸初期の相国寺の僧侶・鳳林承章が書き綴った日記です。

寛永12年(1635)~寛文8年(1668)までの間、日々の出来事を簡潔に記した日記ですが、この日記に登場する人物がすごい。

後水尾上皇、千宗旦、小堀遠州、金森宗和、片桐石州、桑山一玄、野々村仁清・・・。

当時の京都・茶の湯界隈のビッグネームがずらーり。

この史料は当時の文化人・交友関係などをうかがい知る、貴重で重要な史料として知られています。

活字版も出版されおり、多分大きな図書館の書庫には一揃い(全6巻、すごいボリューム)があると思います。

読む人によっちゃ、情報の宝庫です。特に江戸初の京焼研究には欠かせない史料でしょう。

そんな宝の片隅に、ちょびっと「尾張」に関連がありそうな記述があるというのです。

(改めてMMさん、ありがとうございまーす!)

さすがに短期間で全部に目を通すことが出来ませんが…便利な索引目録があり、ここから目当ての情報が何所にあるか、逆引きできます。

今回は「尾張焼」を引いてみました。

寛永二十年(1643)七月廿七日条

最初に「尾張焼(尾州焼)」が登場するのは、鳳林和尚が招かれた茶会の席。

先於數奇屋、而茶之湯也。諸道具共驚目也。墨跡者惠融〔無等〕、亭主被申也。唐僧也。床之内依暗、字不分明也。花入古銅、茶入ノ唐文淋〔林〕也。石井茶入也。盆立也。茶碗高麗也。圓成〔乗〕坊所持之茶碗也。風爐者尾州焼之白藥之風爐也。釜者大〔尾〕垂也。茶後、出書院、而種々飾物驚目也。東坡〔蘇軾〕自繪自讃之竹圖也。三幅一對、尾州宰相〔光友〕殿之筆也。飛鳥井雅親卿息女筆之古今集・東坡年譜之・子卭〔昻〕筆之繪・天庠筆蹟之巻物・硯以下數種之道具也。

さながら会記のように、道具について記しています。「諸道具共驚目也。」というところからも、鳳林が受けた印象が伝わってきますね。

無等恵融の墨蹟、古銅の花入、唐物文琳茶入、円乗坊が所持していた高麗茶碗…なかなか…格式高い取り合わせですね。

そこに「風爐は尾州焼の白藥の風爐」とあります。これが最初に出てくる「尾張焼(尾州焼)」。

……まさかの風炉っ。 (; ・`д・´)

「初期の御深井では茶入を焼いていた!」という説は、脆くも崩れました _| ̄|○

過去の勉強部屋の記述に、訂正とお詫びをしなければ…。

「茶入云々」の話は、ちょっと脇に置いておいて…。

この年号(寛永20年)の記述が非常に重要な意味を持つことに、お気づきでしょうか。

尾張藩の初代藩主・義直は慶安3年(1650年)に歿し、光友が二代藩主となっています。

つまり…この日記は義直の治世に当たるのです。そのころ、既に「尾州焼」という表現がされているということ。

御深井焼の開窯時期には「義直時代」「光友時代」の2説ある、というお話でしたが…

この日記の記述の存在が「義直時代開窯説」を大幅に補強してくれるのです。

だから大変重要な意味を持つ記述と言えます。

「尾州焼」って、そもそも御深井焼なのか?

・・・という疑問は残りますネ。

この日記の記述から読み取れるのは、器物の形が「風炉」であり、色は「白藥」であることだけで、それ以外の情報はわかりません。

「尾州」といっても、尾張国のどこかで焼かれた、という意味でしょうし、それが「御深井」なのか「瀬戸」なのか「美濃」なのか、厳密に区別できるとも限りません。

ただ…隔蓂記の中には「瀬戸茶入」「古瀬戸茶入」などの記述も見られ、瀬戸釉の器物とは厳密に区別が行われている気がします。

さらに調べましょう。

隔蓂記にでてくる「瀬戸」

以前の勉強部屋で、「江戸初期の頃から、すでに瀬戸・古瀬戸の呼び分けがなされていた」というお話を覚えていますでしょうか。

それは隔蓂記においても、同じことが言えます。部分的に抜粋してみると・・・。

寛永十四年二月六日条 自夜中、雨、自辰刻、到三更、大風。午時、於木下左近〔利次〕殿、有振舞。於圍、數寄之振舞也。高台寺〔紹益〕・予・木下佐兵衛〔俊治〕殿・同縫殿助〔延次〕殿四人也。掛物一休〔宗純〕、花入古銅、茶碗高麗、茶入瀬戸尻ブクラ也。及初更、帰矣。

寛永十四年二月十五日条 鷄明刻、赴佐久間将監〔實勝〕殿之茶湯。金地院〔元良〕・高台寺〔紹益〕・予・文殊院〔應昌〕・見樹院〔立詮〕也。掛物、宗順〔純〕爲紹鳳書ト細字上ニアリ、下ニ一休ノ二字、大文字也。釜ハ土ノ平キ口ノ細キ釜、水指瀬戸、茶碗高麗クワン入〔貫入〕アリ、茶入古瀬戸肩衝水滴瀬戸焼物水指瀬戸歟、炭取ハ瓢箪、羽箒大鳥也、香合ハ扇子ノナリ也、花入古銅、薄板床ノ中ニ可滿程之大薄板也。

どちらも茶事に呼ばれた、道具組みの説明部分ですね。6日の茶事では、瀬戸尻膨の茶入が登場。そして15日の茶事では、古瀬戸肩衝の茶入が登場。やはり「呼び分け」がされているようです。

ただ気にしなきゃいけないのは、この「瀬戸」という表現が果たして、「産地」であるのか、「釉薬の名称」であるのか、議論の分かれるところなのです。

いわゆる鉄釉で焼き上がりの黒っぽいモノを「古瀬戸」、赤褐色の上がりのものを「瀬戸」と呼び分けていたのかもしれません。茶入に関しては、やはり釉薬の調子でこれを呼び分けていたんじゃ…?という気がしていますが、果たしてどうだったのでしょうかね~。

個人的に気になるのが、「水指瀬戸歟」という記述。

直前に「水指瀬戸」と記述しているのに、ダブルで水指?そんな訳ないですよね。

「歟」はこれ一文字で「か」と読みます。「推測・反語・感嘆」を表す助字としての役割があります。つまりこの場合、「水指瀬戸」と記したけど、書きながら「あれ、やっぱり水指は瀬戸だったかな?」という反問を意味してると思います。

お客として茶事に参加したこのある方なら、想像できるでしょうか。お客で茶事に呼ばれ、様々な道具を拝見するのですが、そのすべてを明確に記憶していない場合って、結構あるはずなのです。参加した茶事を思い出しながら、日記を記す流れで、「あれ、あの水指って・・・?」という様子が浮かびます。

こういう流れを踏まえ、もう一度全文を眺めると「水指瀬戸歟」の直前に「水滴瀬戸焼物」という記述もありますね。水滴について記述した段階で、「あ、水指は瀬戸だったかな?瀬戸じゃなかったかもしれない」と、思い直したのでしょうか。単なる記憶違いを正す意味なのか、それとも水滴として使われた「瀬戸焼物」の様子(釉薬の上がりや形状など)が水指とは異なっていたのを思い出し、「水指は、(水滴と同じ)瀬戸で作られたものだったのだろうか?」という疑問を意味しているのかもしれません。

あー、タイムスリップして確かめてぇ。(´・ω・`)

「尾州焼」とはどんなモノだったのか?

結構、脱線してしまいました…話を戻しましょう。

何一つ断定できませんが、こうして「瀬戸」という表現を茶入以外にも使っていることを鑑みるに、焼き物の生産地としての意味合いも多分に含んでいる言葉…と、考えても良さそうな気がします。

やはり「尾張(尾州)」「瀬戸」に関しては、区別されているんだと思います。

そして多分、尾州焼は現在で言う御深井焼のことです。当時の尾張で焼き物作ってるのって、それ以外に知りません。

さらに思い切った考察をするなら、「このころはまだ御深井という名前は広く定着していない」、そういう想定でいいのではないでしょうか。

「尾州焼之白藥之風爐」

たったこれだけの文字列から、器物を想像で補完する…なかなか危うい推測ですよね(笑)

でもそれをやらずに居られない(苦笑)

「白藥」という表現から、恐らく素焼きではなく、何かしらの釉薬が掛かった状態で、色は白っぽかったんだろう、という想像が働きます

ひょっとして、この「白藥」が寛永期の御深井釉?まさかぁ~。

僕はこの大花瓶の釉薬をイメージしましたが…果たしてどんな釉薬だったのだろうか…。

あぁぁ、タイムスリップして確かめてええええええええ。(;゚Д゚)

尾張藩と何かしらの関わりが?

さらに気になるのが、「三幅一對、尾州宰相殿之筆也」という部分・・・。

尾張の宰相、つまり補佐する立場にいた人を指しています。活字版作成の際、鉤括弧で付け足した説明部分に、光友のことだと記されています。歴史的にも整合性が取れてると思います。

※光友は寛永17年(1640年)3月4日、参議に補任し、右近衛権中将を兼帯。7月11日、従三位に昇叙。参議・右近衛権中将如元。

茶の湯のあと、次の間に通され、そこに飾ってあった掛軸の中に、光友の書画があった。なんだか意味深ですよねー。たまたま持ってたのか、それなりに理由があるのか、わかりませんが。

この茶会の亭主は曽谷宗喝という人物。この人が「尾州焼の白藥の風爐」と「尾州宰相筆の三幅対」を持っていた…。

何かしら、尾張藩と関わりのある人物なのかもしれません。全く関係ないのかもしれません。

宗喝について研究した文献などはまだ調べきれていませんので、ここでは何の解説もできません…。

ふと思いつきで「あっ、曽谷伯庵か?!」って思いましたが…没年の整合性が取れない…。

ここは慎重に調べないといけません。

さらにいえば、「調べりゃ分かる」ってものでもないかもしれませんが…。(´・ω・`)

結局…

だらだら長いこと書いて、結局殆ど分からずじまいです。(汗)

一度やらかしてるので、ミスリードが怖いっていうのもありますが…。

断定的な情報ではないものの、非常に「匂い」を感じる、怪しさ満点の「尾州焼」なる風炉の存在が浮上しました。

ワクワクしますよねー。なんだか分からんなりに、歴史を掘るのってホント楽しい。(・∀・)

隔蓂記にはまだ、「尾張焼(尾州焼)」の記述がでてきます。次回もそこを掘り下げていこうと思います。

関連記事

タグ:
勉強部屋

御深井焼06-衰微?再興?18世紀の御深井焼

読む ≫

勉強部屋

御深井焼14-「尾張焼」ってナンダ?その3

読む ≫

勉強部屋

御深井焼07-御窯屋のお仕事

読む ≫

勉強部屋

御深井焼03-もう一つのルーツ

読む ≫

コメント

コメントを残す