御深井焼11-指導者と陶工

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18世紀後半~19世紀にかけて、にわかに御深井焼の様子が変わってきました。

殿様たちの趣味・好みを反映した陶器制作、また尾張藩に仕える武家階級への褒美の制作。

非常に多彩な展開を見せる御深井焼、そして尾張周辺の窯業を支えたのは、他ならぬ瀬戸の陶工たちでした。

需要が高まれば、技術も上がる

かつての勉強部屋シリーズ「尾張の茶人たち」でも、触れた内容と関係してきます。

18世紀ごろより町方でも茶人が出現し、名器を求め、また好みの道具を作らせることが始まっています。こうした尾張周辺の茶の湯や煎茶などの文化への関心の高まりは、道具としての陶器の需要を引き上げる要因でもありました。

「名古屋の焼き物・豊楽焼」でもご紹介した、歴代豊助たちも、この18世紀頃から盛んに陶器を制作し、方々で高い評価を得ていたことが知られています。世間の「もっと面白い焼き物を作ってほしい」という、そんな要望にこたえようとして生まれた一つが、木具写だったとも考えられます。

つまり何が言いたいかというと・・・

こうした文化への関心の高まりは、その当時の陶工・職人たちへの「高いレベルでの要求」へとつながり、それが技術を発展させていく、ということです。

御深井焼でも、「お殿様たちの好みの道具」だけでなく、藩士たちにやる気を出してもらうための「褒美として相応しいモノ」が制作されます。

「こんなモノをつくれ」

「もっと釉薬はこんな感じに…」

瀬戸の御窯屋たちをはじめ、瀬戸の陶工たちは様々な方面から大きな影響を受けた時代だといえるのです。

杉山見心と加藤春宇

18世紀後半、その指導者の嚆矢ともいえる例があります。

尾張藩の藩士で、杉山見心(1750 – 1811)という人がいました。見心は熱田奉行、側用人などを歴任し、江戸詰のころ(藩のお仕事として江戸にいたころ)、山東京伝(戯作者・浮世絵師)、十返舎一九(戯作者)などと交友し、さらに如心斎の高弟である川上不白とも親交があったことから、茶にも親しんだ人物でした。

この見心作の陶器がいくつか現在にも伝わっており、余暇に自分で好みの陶器を作っていた人物としても知られています。

「余暇に好みの陶器を自ら造った」とはいいますが…

ただの藩士が自分一人で焼き物を作れるわけがなく…当然、誰かしら陶工の手助けを受けているはずなのです。(楽焼ならまだしも、高火度焼成の本焼窯なら、それなりの規模の築窯と焼成の技術も必要)

18世紀から19世紀にかけて、この「本職ではないけど陶器が好きで、自分の好みの陶器を作った人」が尾張周辺で続々と現れます(千村伯就、市江鳳造、大橋秋二、正木惣三郎・伊織などなど・・・)。この手の人たちは、やはり本職の陶工に習ったり、彼らの手を借りて、自分の好みの陶器を造っていたはずなのです。

見心に関しては、特に希なパターンでこの「手を借りた陶工」が誰だったのか、凡そ分かっています。

名工を育てるのは時の数寄者たち

その一人が瀬戸村・北新谷の陶工、加藤春宇(17?? – 1807)という人物です。

瀬戸にはご存知、尾張藩の御窯屋御三家(唐三郎・仁兵衛・太兵衛)がいますが、この人たちみんな赤津村の陶工。そのお隣、瀬戸村にも陶工の家は何軒もあり、そのうちの一人が春宇です。つまり…瀬戸の陶工は御窯屋御三家だけじゃないのですね。

春宇は同じく北新谷の加藤孫右衛門家から分かれて一家を成した、加藤武右衛門家の2代目。名工として知られ、安永(1772-81)年間に、定光寺の藩祖・徳川義直の霊廟に敷瓦を献上、また文化4年(1807)には瀬戸の深川神社に織部燈籠を制作して奉納していることが確認されています。

また、発掘資料として江戸・尾張藩上屋敷跡(現在の防衛庁)から「春宇」の印が押された史料が出土しています。上屋敷は大名やその家族などが用いる屋敷であり、そこの発掘資料として春宇の作品がでてくるということは、「名工」という評価も恐らく当時からの話なのでしょう。

その高い技量を買われ、春宇が御深井焼に参加したかどうかまでは不明ですが、尾張藩へ「春宇」の銘を刻んだ器を献上していたことは間違いありません。

※「春宇」銘の鵜之斑釉の焼き物の一例

江戸上屋敷に持ち込まれるほど、上手の作品を作った春宇…果たして天性の才能だけで、これほどの評価が得られていたのか?そうは思えません。

やはり背景には、杉山見心のような数寄の指導者がいたと感じます。実際、見心の印と春宇の印が同一の器物に押された作品が伝わっており、二人がこうした関係にあったことは濃厚でしょう。

平沢九朗と加藤春岱

そして19世紀初頭、後の尾張の焼き物に多大な影響を及ぼす、一人の人物が生まれます。10代・加藤仁兵衛こと、春岱です。

その時代は、10代藩主・斉朝が尾張家を相続したタイミング。

春岱はわずか15歳で藩の御用に奉仕したと伝わります。これがちょうど、斉朝が御深井御庭を整備しはじめ、御深井焼復活、萩山焼誕生のタイミングに被ってくるのです。そして若き日の春岱を見出したある人物が、ちょうどこの頃、隠居して風流生活を始めています。

文政10年(1827)に隠居した斉朝のことではありません。

享和11年(1801)に家督を譲り、城東清水坂下の小金ヶ谷養老園に隠居し、今昔庵・舊庵という茶室を建て、風流三昧に耽った、平沢九朗です。

九朗の多彩なラインナップ

九朗はこの自邸で茶事だけでなく、土を捏ね、轆轤を引いて、陶器の制作も楽しみました。この作陶には唐三郎、豊助(三代)、朗一、春悦など、複数の陶工が関わっていたとされ、中でも最も寵愛を受けたのが春岱だったといわれています。

もちろん九朗も御深井焼に何らかの関与をしていたかもしれませんが、ここでいう「九朗の焼き物」とは、極めてプライベートな、個人の作陶です。

アラウンド50のおっさん(九朗)と、ぴちぴち20代の若造(春岱)・・・親子ほどの年齢が離れていますが、さぞ可愛がられたのでしょう。

九朗の作る茶陶は当時から世間で話題になり、その頃の茶会記に「水指 九朗」と名前が挙がるほどでした。古瀬戸釉の水指は九朗の代表作であり、それ以外にも織部志野の茶碗・鉢・向付などなど、多彩な陶器を九朗は作っています。

当然、これらは「九朗の好み」が反映されたものであり、それらを制作する過程で、春岱は相当に指導され、鍛えられたと考えられます。

御深井焼の多彩なラインナップ

尾張藩の御用窯、19世紀の御深井や瀬戸でも、瀬戸の伝統的な技法である、古瀬戸釉(鉄釉)御深井釉(灰釉)、また前述した春宇などが得意とした鵜之斑釉、さらに志野黄瀬戸織部の技法が、この頃に復活しています。

こうした背景には、やはり「こういうモノを造れ」という指導者の存在を感じずにはいられません。

九朗を初めとする「本職ではないけど陶器が好きな人」たちが作ったと考えられる、在銘作品を調べると、古瀬戸だけでなく、志野・黄瀬戸・織部、さらには唐津や安南写まで、古陶に倣った作品が多くあります。これらは「焼物好き」たちの指導の下、春岱を初めとする瀬戸の陶工たちによって、試行錯誤の結果、確立(再現)された技術と見るべきでしょうね。

中でも春岱はこれらの技法を自在に操り、様々な焼き物を作り出したため、瀬戸本業の名工として、その名が広く知れ渡ったのです。

「九朗のあの織部の手鉢、いい感じじゃない!ナニ、仁兵衛が焼いたの?ああいう感じの御深井でも作ってよ!」

ともすると、こんなやり取りが尾張藩と瀬戸の陶工たちの間であったかも…しれません。

九朗の焼き物に深く関与した春岱ならば、御深井焼にもこの技術がフィードバックされていた、というのも十分考えられますよね。

尾張藩と瀬戸の陶工たち

指導者は見心や九朗だけでは有りません。尾張藩そのものが、指導者という立場でみることができます。

19世紀の御深井焼では、盛んに「尾張家伝来の名品の写し」を作らせています。

特に顕著な例が「三島手」の器。

※御深井焼・三島手の例

尾張家には「天下無双の名物」と賞賛された茶碗、三島桶が伝来しており、この写しも作らせています。この他にも狂言袴筒茶碗「藤袴」や、光友が愛用した俵形茶碗など、「白泥で象嵌を施した器」はこのころの御深井焼の中でも上等の作品として制作され、なおかつ丁重に扱われ、後世に伝わっています。

こうした「尾張家伝来の名品の写し」は、加藤藤三郎家文書の中の注文控を見ても、随所にそれらしき記述が残されており、恐らく御窯屋の重要な仕事であったと思われます。

厳密に本歌が存在する写しから、この「三島手」の技法を用いた御深井のオリジナルまで、一口に御深井の三島といってもいろんなパターンがあります。

この他にも、黒織部を模した茶碗、鉄絵を施した水指など、在銘作品だけでもかなりの作域の幅があり、名品の写しと平行して、藩士たちからの様々な注文に応え、多様な技法を駆使して焼き物を作っていたと考えられます。

この時代の御深井焼が非常に多彩なバリエーションとなっている理由は、それだけ「需要側からの高いレベルでの要求」があり、「多彩な指導者の存在、それに応える陶工」がいて、「様々な技術が確立された」から、という風に捉えるべきなのでしょう。

簡単には分類できない御深井焼

ちょっと今回は濃すぎる回でしたね…。(;´Д`)

単に「19世紀の御深井焼」と呼ばれる焼き物だけを見ても、なかなか理解が難しいのとろなのですが、こうした「周辺人物」を考慮して見てみると、九朗や春岱が非常に重要な位置にいることがわかってきます。

こうした情報を踏まえて見てみると、御深井焼の中も「あ、これは春岱が作ったやつかな?」というモノが、いろいろ見えてきたりするのです。

そしてその春岱に大きな影響を与えたのが、九朗であり、九朗の焼き物と春岱の焼き物を見比べると、その作風が実によく似ています。

九朗→春岱→御深井焼という流れを知ってもらいたかったのですが…「それだけではないよ!」ということにも留意して、いろんなパターンをご紹介したら…こんなに長くなっちゃいました(汗)

そろそろ御深井焼をまとめたいところなのですが…まだまだ勉強が足らんようです。

今回の勉強部屋が、まさにそうなのですが…僕自身がきちんと咀嚼して情報を消化しきれていない感じがするのです。

ゆえにアウトプットが御座なりに。

まとめるのはもう少し、時間がかかりそうです…。 (o´Д`)=з

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