御深井焼13-「尾張焼」ってナンダ?その2
前回より夏の自由研究で「隔蓂記の尾張焼」にスポットを当てております。
珍しく、ブログ投稿の間隔が短い…勉強部屋・夏季集中講座みたいな感じですね(笑)
なんと隔蓂記に最初に出てきた尾張焼は風炉だった…という思いがけないスタートを切ったわけですが…。
「名古屋城で茶入を作っていた」という可能性が全否定されたわけではありません。
(前回の奴は、僕が面白おかしくふざけているだけです)
というわけで今回も面白おかしく、さらに隔蓂記の「尾張焼」を追ってみましょう!
承応三年(1654)八月二日
從夜中、雨天也。今朝、於曇華院尼寺、自懺法有之由也。芝山采女正公自尾州、上洛、三宮御上京御供也。使者來、給尾州焼之皿四十ケ也。
非常に簡潔な日記です。朝は曇華院尼寺で法要がありました。そして、芝山采女正(しばやま うねめのかみ)が尾張から京都へやってきて、その使者が「尾張焼の皿」を持ってきました、という内容。
皿…やはり茶入ではありませんねー。そして前回よりさらに具体性がありません(汗)
大でも小でもない、皿。これでは…流石に分かりません。
しいて注目するなら、その数…四十。多いな…。銘々皿かな?
もしこれに「白薬」とか「黄薬」とか書いてあれば、よくある御深井の豆皿みたいなヤツかなー?という気がしないでもないですが…。
さて、ここで登場した「芝山采女正」という人物。
「何か」はわからないけど、「何か」を理解する「鍵」に、この人はなりえるんじゃ…そんな予感がしました。
まあ、勘です。根拠はありません。
…が、この日記だけではこの人物が一体どういう人なのか、さっぱりわかりません。
この手がかりは数日後、別の日の日記にありました。
承応三年(1654)八月六日
天陰々、而不雨也。芝山大弼〔定豊〕公・同采女公・同吉丸公被來、終日、於當山、遊興也。
芝山大弼、芝山采女正、芝山吉丸公が相国寺を参詣しました、という日記ですね。
芝山一族がそろって参詣…これで何か分かるかもしれない、と思って調べてみると・・・。
芝山大弼というのは、活字版の註釈で「定豊」と記されています。芝山定豊(1638-1707)は江戸期の公卿、堂上家である芝山家2代当主のこと。
定豊のパパは宣豊(1612-1690)といい、実の父は阿部致康でしたが、叔父・権大納言勧修寺光豊の猶子となって、始めは勧修寺宣豊と名乗っていました。これが結構重要なポイントなんですね。この日記を書いた人物、鳳林承章とリンクしました。宣豊の実父・阿部致康は、鳳林承章のお兄ちゃんなんですね~。
ちなみに、猶子として親になった勧修寺光豊も、阿部致康、鳳林承章の兄にあたります。わー、ややこしい。
猶子というのがやっかいで、本質的に「親子」の関係は無くても、親子になるシステムです。養子と似てますけど、こちらは家格に絡む「後ろ盾」的な意味合いが強いもので、宣豊は実の親は阿部致康でしたが、その後ろ盾ととして勧修寺光豊が猶父となった、ということですね。
この宣豊には4人の子供がいました。一人は先ほどの芝山大弼(=定豊)。この他に宣助、房豊、瑞屯がいました。
ひょっとすると、この日に相国寺を参詣した3人(大弼、采女正、吉丸)とは、この兄弟なのではないか?定豊(芝山大弼)にとっては祖父の兄弟、つまり大叔父にあたる親戚・鳳林承章の元を訪れたのですから…この線は結構、濃厚じゃないか、と。
そしてさら調べてみると、なんとこの兄弟の中に後に尾張藩に仕えた人物が居ました。これにはビックリしましたね~。
芝山宣助(1639-1704)は尾張藩に仕え、武士となった武家・芝山家の祖となった人物でした。
ってことは・・・?!
そして2日の日記を思い出しましょう。「芝山采女正公自尾州、上洛」
芝山采女正は尾張から来ていますね。
・・・・・・
「あ!わかっちゃった、俺~」という、安直な紐付けは禁物ですよー。
芝山采女正=芝山宣助と断定できる史料まで探しきっていないのですが…どうも匂いますよねぇ。
今のところただ、それだけ(笑)
もう少しきちっと調べれば、確定できそうな気がしますが…ちょっと時間が足りない。
ともかく、2日の日記でわかるのは、尾張からやってきた武士の使者が「尾張焼」の皿を鳳林承章に納めているということだけ。
「尾張焼が御深井焼である」想定で話を進めるのであれば…「尾張藩が進物として渡すための焼き物を作っていた」という、これまでの勉強部屋の内容とも一致しますよね。
やっぱり、調べていくうちに「尾張焼=御深井焼」というのが、濃厚な気がしてきます。
また、芝山采女正=芝山宣助とは断定はまだ出来ませんが、「尾張藩が勧修寺家に連なる人物を家来として取立てている」という情報が、示唆に富んでいますねー。
直接的にこれが御深井焼と関連するわけではないですが…。
しかし芝山宣助の存在だけでも、尾張藩と公卿との付き合いがあったことを匂わせますよね。
こうしたお付き合いに、尾張焼(御深井焼)が進物として使われていたのでしょうか?
モノ自体はどういったものか、断片的な情報だけではまだ何とも言えません。
が、歴史背景としての「尾張焼」の存在・立ち位置がこの短い日記でいろいろ見えてくる、というのは面白いですね~。
次回はついに、尾張焼茶入が登場します。