御深井焼03-もう一つのルーツ

さて作品展もひと段落。通常営業に戻り、勉強部屋も再開です!

編集履歴

2021/2/3 レイアウト変更に伴う編集

“窯”は確かにここにあった

前回のおさらい

ルーツを探れ

「御深井」という言葉のルーツを知る為に名古屋城の成り立ちを勉強しました。

尾張藩の御用窯としての「御深井焼」がそももそものルーツなのです。

初期の御深井焼の典型例と呼ばれるものは、愛知県の寺院に寄進されたものが今でも残っています。

御深井焼という名前のルーツは確かに名古屋城で間違いない。

しかし、近代になって美濃の元屋敷窯である発見がありました。

あれ…この薄い黄緑色っぽい焼き物はなんだろう…?

初期の御深井焼と非常によく似た陶片が出土したのです。それも、衰退期の織部の器とともに。

名古屋城の焼き物じゃなかったの?

こりゃ混乱しますわ……。

美濃御深井

俗に「美濃御深井」と呼ばれる陶器の一群があります。伝世品(人の手を渡り、現代に伝わった美術品)にその名はなく、この美濃の出土品の類型分析から、「この手のモノはここで焼かれたモノだ」ということが分かり、現代になって名づけられた俗称です。

「生産地の名前を関した焼き物の名称」

という命名方式に従えば、「美濃」と「御深井」とダブルで地名が混在する、意味不明な名称ですね。

そもそもどうしてこんなことになったのか。

「御深井」というコトバの解釈の仕方にその原因があります。

前回紹介した、焼き物の名前のルーツとして、その焼き物が生産された窯の場所、つまり「下御深井御庭」のことを指す意味の他に、「釉薬の種類」を指す意味も「御深井」にはあるのです。

美濃御深井ってどんな焼き物?

まずは「御深井釉」というものについて、認識を統一しておく必要があります。「名古屋城」という括りは一旦、置いておきます。

見た目の特徴は「灰釉系の鉄分を含み、時に青味を帯びたりする透明淡黄緑色の釉薬」です。

単純な灰釉との区別が難しく、焼成温度や鉄分の含有量で微妙に釉調が変化します。

では、美濃で出土した御深井釉の焼き物はどんなものだったのか。

まず釉薬はこの「御深井釉」。時代や焼成条件によって、仕上がりが異なるもの、総じて「御深井釉」がかかっています。

「織部の衰退期の陶片と同時に出土している」ということ、さらには「寛永」という年記銘のある資料が見つかっていることから、遅くとも寛永年間には焼かれ始めていたと考えられています。

器の形は、水指・茶碗・香合・花入などの茶道具や、皿・向付・鉢などの食器類、硯や水滴、鬢盥、油壺など、非常に多彩です。

技術的な特徴は「摺絵」、「打形成形」、「立体的な装飾(耳)」などが挙げられます。

「摺絵」

錆絵の絵付けをさらに簡略化したもので、文様を切り抜いて穴が開いた紙形を用いた絵付けの手法です。シルクスクリーンの要領で絵付けを施したものですね。筆ではかけない細い線の表現が可能になり、また同じ文様が何度でもできて量産に向くという利点があります。松竹梅、藤、菊などの草花文様が摺絵で施されてたものが知られます。恐らく最初期の美濃・御深井焼では筆による絵付けが行われていたのでしょうが、17世紀の早い段階でこの「摺絵」の技法が開発されたと考えられます。

「打形成形」

凹凸のある木型(花弁などの形を模した形)に薄く延ばした土を打ち付けて、器の形を作る技法です。轆轤をひいて作るよりも簡単で、こちらも「量産に向く」ことが特徴です。食器類、特に皿はこの技法によって作られたものが多数出土しており、この頃のトレンドであったことが窺えます。

「立体的な装飾」

主に花器(後に水指として転用されたものも含む)、水指、手鉢、香炉などに見られます。草花(菊や蕾)の形を模したものを器の「耳」として貼り付けたものや、器自体に箆で筋目をつけたり、綱を模ったものを周囲に巡らせたり、紐を編んだような取っ手をつけたりしたものがあります。初期の美濃御深井では、主要な装飾方法でしたが、摺絵の技術が確立されると、量産に向くように立体的な装飾は控えめになっていきます。

出土品や年記銘のある作品の存在によって、この時期(寛永年間~享保あたりまでの江戸前期~中期)の主力製品であったことがうかがえます。

美濃御深井の位置づけ

  • 名古屋城・下御深井御庭で作られた焼き物
  • 美濃で焼かれた御深井釉の焼き物

とりあえず、この二つが出そろいました。

このどちらも「御深井焼」という括りで呼ばれています。

非常にややこしいので、誠に勝手ながら…これらを区別するために「名城・御深井」「美濃・御深井」と呼ばせていただきます。

前回の話と、今回の話を踏まえると…

名城・御深井も寛永頃の創始、美濃・御深井も同じころから焼かれ始めており、時期としてはほぼ一緒なんですね。

名城・御深井が「官製」の焼き物とすれば、それに対する「民窯」の美濃・御深井、みたいな構図が浮かんできます。

しかし、安易な決めつけはできないでしょう。

そもそも美濃という「大雑把な括り」で窯場を指し示すこと自体が強引な話なので。

美濃といっても、かなり複雑に支配地域が分かれています。尾張藩に属する地域もあれば、幕府の天領(直轄地域)もあり、さらに岩村藩領も点在…。それぞれの藩の支配を受けながらも、窯場・陶工たちのレベルでは横のつながりがあったでしょう。そのつながりの中で「御深井釉」の技術は共有されていたのではないか…だとすれば、ある窯では「藩からの御用(注文)」で御深井釉の器を作っていて、また別の窯では民間の需要(江戸や京などの大都市)に応じて御深井釉の器を生産していたかも、しれません。

美濃(というより瀬戸を含めた「東濃地域」)のような巨大な陶器生産地において、官民の区別をすること自体がナンセンスでしょうね。

名城と美濃、この二つの焼き物は相関関係にあるのか?

今のところ、これを具体的に証明するものは何も見つかっていません

あくまで「御深井釉を使った焼き物」という点で非常によく似ているものだ、ということだけです。(実は分ける意味もないかもしれないのですが…)

文献資料を基にした仮定にすぎませんが…名城・御深井が「瀬戸から陶工を呼び寄せて従事させている」という点、さらにさかのぼってそもそも義直の時代に「優れた陶工を美濃から呼び寄せ、瀬戸で窯業の再興を図った」という点を考慮すると、御深井釉のルーツは美濃にあるのかな?と思えます。

技術的なベースは「ポスト織部」を目指した美濃で開発され、陶工たちの間で知識が共有されていた。

それが義直の時代、瀬戸へ召致された陶工を介して伝播、藩主からの命を受けた陶工たちが名城・御深井で御深井釉の焼き物を生産。

世間一般には名城・御深井の方が先に認知された。

それゆえに「御深井焼」などとという名前がついた。

そして近世になって、美濃で陶片が見つかり、初期の御深井焼によく似ていたためこれを「御深井釉」と呼び始めた。

こういうロジックが今のところ、すんなり腑に落ちる気がします。

あくまで想像ですけどねー。

整理しましょう

「御深井」という名前

焼き物の名前には、産地を冠した名前(萩焼、有田焼)、釉薬の特徴・作風を指した名前(織部焼)などがあるが、「御深井」とは「どちらでもある」という特殊な例。

美濃御深井

美濃地域で寛永頃から焼かれた陶器の一群。「御深井釉」を掛けられている点以外にも、作風の特徴があり、これらに類するものは「美濃御深井」と俗に呼ばれる。

名古屋城と美濃

直接的なつながりは不明ながら、どちらも「御深井釉」を掛けている点が共通している。恐らく釉薬の技術のベースとなるものは美濃で開発され、それが名古屋城の「下御深井御庭」で陶器生産に従事した陶工を介してもたらされ、独特の釉薬を指して「御深井釉」という名前が後の時代についたものだと考えられる。

だんだんと、御深井焼がわかってきましたね!?

でも、まだ道半ばなんです。r(・∀・;)

懇切丁寧に「御深井釉」と「御深井焼」の言葉の混乱を紐解いてきたわけですが…

次回は「御深井釉だけが、御深井焼じゃない」というお話になります。

・・・ちゃぶ台返しもいいところですねー。また分からなくなっちゃうじゃん・・・。

また話は「名古屋」「尾張藩」へと戻ります。

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