御深井焼-初期御深井、本当の姿は?

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激動の11月。その間、ほったらかしの勉強部屋。

んー、年内に御深井焼は終わりそうも無いですね……r(・∀・;)

御深井焼の真の姿は?

名古屋城・下御深井御庭瀬戸山で焼かれていた陶器…それが御深井焼。

典型的な例として「御深井釉の焼き物」をご紹介しましたが…どうやら初期それだけではなかったのでないか?

…というのが、前回までのお話

「初期の名城・御深井では、瀬戸茶入が焼かれていたのではないか?」

前回はさまざまな疑惑・疑問を通じて、そんな沼地にどっぷりハマっていただきました。

いい加減なことを抜かすんじゃないよ!

と、お叱りは今のところ…来てません。(マイナーなブログでよかったぁ)

「瀬戸茶入」を話題に出した以上、どうしても「名物茶入」に触れないわけにはいきません。この際ですから、ちょっと勉強したほうがいいでしょう。

とはいえ、御深井焼の話からは逸れるので、後日、別のエントリーに分けて書くことにします。

沼の淵にたどり着いた先人たち

今回は、その沼地から脱出すべく、過去の専門家たちの考察、記録を辿ってみましょう。

まずは「原色陶器大辞典」という、分厚い辞典があります。昭和47年に加藤唐九郎によって編纂、淡交社より出版された、陶器にまつわる様々な事象がまとめられた、文字通り「大辞典」。

この辞典で「御深井焼」をひいてみましょう。

おふけやき(御深井焼) ・・・尾張徳川家の御用窯。(中略)土は以前から私掘を禁じられた祖母懐土で、器は初め古瀬戸風の黒褐釉を主として高雅なものを出したが、中頃から特殊な御深井釉が現れて別に御深井青磁とも呼ばれた。(後略)「日本近世窯業史」

という感じ。

すでにこの辞典でも名城・御深井美濃・御深井が混同して語られています。前回までの勉強部屋を読んだ方なら、赤線を引くまでも無くわかりますよね?というか、この当時は恐らく美濃・御深井の考察が浅かったので、ざっくりまとめて言う他なかったのでしょう。

注目すべきは、前半部分。

「土は以前から私掘を禁じられた祖母懐土で、古瀬戸風の黒褐釉を主として高雅なもの」

どうやら先人たちはここまでたどり着いていたようです。ただし「茶入」という断定は避けています。

僕の書いてるチャラチャラしたブログとは違い、やはり書物として後世に残すものですから、慎重にならざるを得ないでしょう。(´д`)

ここから、さらに昔の記録を探してみましょう。

陶工が記した、当時のナマ情報

時は延宝7年(1678)。場所は四国・浦戸。

ここからある一団が本州へ向けて舟で出発します。

この中の一人、森田久右衛門は尾戸焼・初代窯元。

彼は第4代藩主豊昌に従って江戸に出府。そして大阪、京都、そして尾張の瀬戸など、各地の窯業を視察、または陶工たちの話を聞きながら、それを日記形式で記したものが、現在に伝えられています。(高知県保護有形文化財)

「森田久右衛門日記」は、江戸時代初期の各地の窯業の実情が、陶工の視点から詳細に記録された点、また江戸の茶道、芸能、風俗、社交等に関する豊富な情報がちりばめられた、貴重な資料として有名です。

この中に「御深井焼」と思しき記述が残されているのです。たった1行ですが、非常に興味深いもの。

「尾張被仰付候焼物所ハ御城の内ニ有リ茶入かま也」

茶入キター (*゜∀゜)=3

…鼻息荒くなりがちですが、落ち着きましょう。

まずこの森田久右衛門日記の資料としての評価。実際に「自分自身で見たこと」「旅の途中で人づてに聞いたこと」これらが混合して日記形式で書かれています。そこに留意する必要があります。

端的に言うと、この「尾張被仰付候焼物~~~」の下りは、久右衛門が実際にその眼で見たわけでないのです。

この一文の前後を読めば分かるのですが、久右衛門が瀬戸の窯屋に滞在した際の伝聞(瀬戸の焼き物の歴史などを詳しく聞いた事)が書かれているのです。

「御城の内ニ有リ」という表現も、実情をはっきりと把握していない(いわゆる一般人の視点、御庭と御城の区別がない、御庭を含めた「御城の内」という理解だった)ことを示していると言えます。

結局、久右衛門は御深井焼の窯には訪れず、岡崎へと出立していますし、御深井の窯を実際に見たわけではないのです。

日記の成立時期、尾張藩では二代・光友の時代…。祖母懐の土を独占した時期とほぼ重なってくるのです。

そんな日記の中に、あえてといいますか、よりにもよって「茶入かま也」という表現が出てくることが非常に興味深いのです。

原本は個人蔵ですが、この森田久右衛門日記を明治期に書写したものが、Web上でも閲覧が出来ます。非常に興味深い資料ですので、読んでみると面白いですよ。

ともかく、沼地を脱出しましょ

御深井焼に残された疑問点・不審な点と、伝聞ながら当時の人物による証言。

これらを合わせると・・・「茶入焼いてたんじゃないの?」という、疑いがより色濃くなってきます。

ただ……現物(伝世品)がない!

ここなんですねぇー。(´・ω・`)

あくまで状況証拠に、古文書を重ね合わせた推測の域を出ない話。(ゆえに唐九郎も言及を避けたのでしょう)

父の話では地下鉄・名城線建設の際、物原跡地から茶入がゴロゴロ出てきた、というフワッとした話もありますが…。

「これが初期・名城御深井の瀬戸茶入だ!」と確定ランプが出せる茶入って…今のところどこにもないのです。

いや、どこかにあるはず・・・これか?それか?あれか?

そんな眼で見てみると・・・茶入の見方が変わるかもしれませんね。(`・ω・´)

分からないなりに、多方面から考え、物事を探っていく、というのも骨董の楽しみの一つでしょう。

そういう人たちが増えてくれると、こういうニッチな沼地の研究も進むかも?しれません。

初期の御深井焼についての話は、とりあえずここまで。

次回からは、この御深井焼が一時期衰退し、また盛んになっていく江戸中期~後期の時代のお話に移ります。

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