御深井焼16-“オフケ”とは?

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メリー・クリスマス!…は、もう終わりましたねー。ご無沙汰しております。

どうも、遅れてやってきたサンタクロースです。

よい子(?)の尾張国焼マニアの方々、お待たせしました。

クリスマスプレゼントですよー。( ´∀`)

見返してみたら御深井焼の最初の投稿は2018年3月なんですねー。随分長い事続けてきた、勉強部屋「御深井焼」シリーズ…そろそろ、まとめに入りたいと思います。ちょーっと長くなりますが…最後までお付き合いください。

一応、これを御深井焼シリーズの区切りとさせていただきます。

(※)の部分は、根拠不十分ながらも個人的な推測に基づく、突っ込んだ考察を含む部分ですので、ご留意ください。

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御深井焼とは?

名古屋城・下御深井御庭で焼かれた焼き物の総称です。(御深井丸ではありません)

また「尾張藩の御用窯」としての意味も内包しています。

17世紀から生産していたと考えられ、当初は寺院・公家・武家に贈るための焼き物を生産し、流通していたことが当時の古文書に残されています。

尾張藩における「窯業」の始まりは、美濃から優れた陶工を瀬戸村に招聘したり、御竃屋の制度を整えたりした、初代藩主・義直の頃だったと考えられます。そして2代藩主・光友の時代には茶入の本格的な生産体制を整えるため、瀬戸・祖母懐の土を名古屋城の蔵に運び入れ、尾張藩で独占、古文書の中にも「お城で焼き物を焼いている」とみられる記述があることから、「御深井焼」の創始時期には、「義直時代」と「光友時代」の2説があります。

「尾張藩の御用窯」という意味では、初代・義直のころから始まっているという認識でよいと思います。

名古屋城の御庭焼

名古屋城・下御深井御庭は現在の名城公園周辺。明治維新後、陸軍の演習場となっていた経緯から、御深井の窯跡は分からなくなっていますが、窯の場所が記された江戸期の御庭の絵図が存在し、また名古屋城に窯の存在を示唆する古文書も残されおり、ここに窯があったことは確実視されています。

贈答品として渡していた焼き物は、寺院に残されているものだと花瓶・香炉などが多くを占め、この他にも当時隆盛していた茶陶が焼かれていたと考えられます。光友の時代には茶陶の生産が盛んになっていたと思われ、当時の記録には「尾張焼」「尾州焼」などの名前で、尾張家から拝領したという焼き物があり、これが当初の御深井焼だったと考えられます。

「御深井御庭の窯」の操業時期は、今の所…判然としていせん。初代・義直の時代に御深井の御庭が整備されたことは確実ですが、「庭が整備され=窯が動き出した」というのは、やや突飛な説なんじゃないかな…という気もします。

※御竃屋の体制づくりが始まった最初期は(もしくは光友時代以降も並行・継続して?)瀬戸地方「尾張藩の御用窯」としての機能があったとするほうが、個人的には納得しやすいかなぁ…と。いずれにせよ二代・光友の時代(藩主を継承・大納言になる前から?)になってから、御深井の窯で茶入が生産されていたことは疑いにくく、厳密に「御深井窯」と呼べるのは茶入に限った話かもしれません。

御深井焼とは?

名古屋城・下御深井御庭で焼かれた焼き物の総称。及び、尾張藩の庇護のもと瀬戸で生産された焼き物。

いつから始まった?

初代藩主・義直の頃、1600年代(17世紀中期)。光友の時代になると茶入を御深井の窯で焼かせるようになる。

政治の道具から趣味の道具へ

義直・光友の時代に始まった御深井焼は、当初は「公的な贈答品」としての目的がありましたが、時代が下がると次第に趣味的な性質を深めていき、藩のお抱えの陶工による焼き物製作の実演を見たり、好みの焼き物を作らせたりする方向へと変わっていったと思われます(生産量は減り、ごく希にしか御深井の窯では焼かれなくなった?)

※18世紀の御深井焼の実態がよくわかっていないのは、表に出てこない、極めてプライベートな存在であったことの裏返しなのではないでしょうか?

※そして17世紀はまだ「御深井」という焼き物の名前が無かったのに対し、いつからか呼ばれるようになった「御深井焼」という言葉も、18世紀頃から呼ばれるようになったのではないか?と疑っております。

尾張藩の御用窯

18世紀には規模が一段小さくなっていた(衰微していた)御深井焼ですが、18世紀後半からまた盛んに作られるようになります。

徳川斉朝、斉荘といった風流を愛した殿様の出現により、御深井焼だけにとどまらず、藩邸の庭に新たな窯を築き、茶陶の生産が盛んに行われました(萩山焼・戸山焼・楽々園焼・金城東山焼)。

そして町方や武家の間にも風流を志す人物が多数現れ、藩の内外・地域全体の文化的関心の高さに牽引される形で、御深井焼は規模を拡大していったと考えられます。

その端的な例として、尾張藩は藩士や有力商人たちに配るため、瀬戸の御竃屋に発注し、下賜品としての焼き物(茶陶)を瀬戸や御深井で焼かせるようになります。

19世紀にその最盛期を迎え、瀬戸の御竃屋も御用窯として大いに稼働。

※また御竃屋だけでなく、当時の瀬戸では陶工たちによる分業化・技術の進化・深化(黄瀬戸・鵜之斑に秀でて評判になった加藤春宇の存在や、三島手の控えが残された加藤唐三郎家文書の存在など)が進み、末端まで含めると御用に携わった人間は多数いたと考えられます。

さらに御竃屋の中から名のある陶工(加藤春岱など)も出現し、焼成技術は多岐にわたり、実に様々な焼き物が御深井、および瀬戸で生産されました。

19世紀に造られた器物には、「深井」「深井製」「祖母懐」などの在印のモノが多く、なかでも「賞賜」印が捺されたものは、あらかじめ下賜することを想定して、尾張藩が作らせたものです。

大きく3つの時期に分けることができる

義直・光友時代の「初期の御深井焼」…文献上で存在が確認できるが、伝世するものはごくわずか。御深井窯では恐らく茶入を相当数作っていたと思われる。その後の衰微期はさらに不明な点が多く、類例も判然としない。18世紀後半以降が最も多く、在印のモノであれば確実に御深井焼と断定できる。

御深井焼の終焉

尾張藩の庇護にあった御深井焼は、明治維新によって幕藩体制が終わるとともに、生産されなくなります。

現在も伝わる多くの「御深井焼」は18世紀後半~19世紀に生産されたものであり、「御深井焼と名称がつく以前」の初期の御深井焼はいまだ研究が進んでいないこともあって、その全容は定かにはなっていません。

何か忘れてない?

200年以上の歴史をザックリと説明すると、こんな感じなります。

…端折りすぎ?

実は意図的に抜かしている部分があります。というか、御深井焼の括りでは語りません!

これについては…また…いずれ!

【特集】”オフケ”ってナンダ?

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