尾張国焼鉄道の旅01:名古屋駅(笹島焼)

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新たな年を迎え、キリよく勉強部屋の新シリーズを始められます。

今年もよろしくお願いいたします。

昨年6月に名美アートフェア2019で開催した、「尾張国焼 × Subway-Line」では好評(?)をいただきまして…。

すっかり「なぜか地下鉄の駅名が並んでいる、おかしな骨董屋」として、ある界隈では知られた存在となりました…。

2018年の「前津小林村」とは違って、事前に色々解説しないというスタンスで行きましたが…。

「名古屋の焼き物」を網羅するにはちょうどいい題材ですので、勉強部屋でこれを振り返りつつ、名古屋にあった焼き物を勉強してみましょうか。

郷土美術をめぐる、鉄道の旅の始まりです!

名古屋の大動脈「東山線」 × 尾張国焼

まずは東山線。ちょこっと「鉄ヲタ」ちっくな部分に触れておくと…昭和32年(1957)に名古屋市で初めて開業した地下鉄が、この東山線(栄 – 名古屋 間)なんです。正式名称は名古屋市高速度鉄道第1号線市内を東西に横断する路線だったため、初期は「東西線」と一部で呼ばれていたようですが…昭和44年(1969)より「東山線」の愛称が正式に決定。

栄、今池、星が丘の繁華街や、名駅、伏見といったオフィス街、覚王山という歴史のある街、藤が丘という市外の街とのハブターミナルがつながったこの地下鉄路線は、まさしく「名古屋の大動脈」といえるでしょう。

…実際のところ、東京や大阪にくらべ「マイカー移動」も多いみたいで、通勤時間帯以外は「大動脈」といった感は弱いですが。

名古屋駅の焼き物

2027年にリニア中央新幹線を控え、ここ十数年でニョキニョキ様変わりしている名古屋の玄関口。

尾張国焼をめぐる旅の始まりも、やはりここからいきましょう。

この中部地方最大の巨大ステーションの歴史を紐解くと、初代・名古屋駅は今現在の駅舎よりも少し南側、現在の「笹島交差点」付近にありました。(明治20年、1887年の開業)あのネジネジタワーのある交差点です。

明治以前の江戸時代、このあたりは「当時の名古屋の中心部」からは外の世界。小さな村落こそあれど、基本的には低湿地帯なので住居にはあまり向きません。要するに現在でもこの辺りは洪水しやすい土地で、最近だと2014年9月に大雨が降って、地下鉄・名古屋駅のホームが冠水してましたね…(リニアのホームは地下らしいですが…大丈夫なのかな?)。

これは国土地理院の「地理院地図(電子国土Web)(外部リンク)」より拝借した、明治期の低湿地をマッピングして、現在の地図に重ねたものです。

「笹島交差点」赤いしるしを打っておきました。今はなき、かつての「大池(麹ヶ池)」も右下にありますね~。前津小林村にも出てきた溜池ですね。

見ての通り、堀川より西側のこの一帯は、みーんな田んぼ。大きな電車を走らせ、さらに停車して人や物資を積むための「駅」を作るには、それなりに大きな土地が必要となります。既存の市街地からそう遠くない場所で、ちょうどいい広さの場所があったので、ここに駅を作ることにしたのでしょう。

要するに、何が言いたいかというと…この地域がこういう「町はずれだった」ということは、現代を生きる我々にはなかなか想像がしにくいと思います。が、こういう過去のデータを見れば一目瞭然です。現在の名古屋駅周辺からは想像もできないほど、ここは田んぼだらけの超田舎だった。でも、こういう場所が、実は焼き物の窯を作るのには適しています。

前述しました、前津小林村の復習です。ここもまさに田舎だったわけですが…江戸時代、ここに窯を築いて焼き物を作っていた人が、かつていました。覚えていますか?

それは、豊楽焼です。

人がたくさん住んでいる市街地で、焼き物の生産をしようとするとどうなるか…「火事になるから、他所でやってくれ!」と、確実にクレームが来ます。何なら、御深井焼だってそうです。さんざん「御深井丸に窯があったのではなく、下御深井御庭にあった」と口酸っぱくして喧伝しているのは、そういうことです。殿様や重臣が住まう、お城の廓の中に窯を築こうとしていたら、絶対に怒られます。

その点、豊楽焼の窯は問題なかった。小林村も低湿地ゆえに田んぼばっかりだし、水はあちこちにある。クレームつける人自体が住んでいない。何なら、低湿地の水を含みやすい粘土質の土(田んぼの土)って、焼き物にも適していたかもしれません。(笹島焼ではどういう土を使っていたのか、定かではありませんが)

これと同じような理由で、この笹島にも焼き物の窯があったのです。その名も笹島焼。(ようやっと本題に行けた…)

笹島焼

文化年間(1804-18)、牧穆斎(まき-ぼくさい)が創始した、軟質施釉陶器(いわゆる楽焼)を作る窯、および作品をその土地の名前を冠して「笹島焼(ささしまやき)」と呼んでいます。

尾張の文化年間…と聞いて、ピーンと来るようになったら、あなたも尾張国焼マニアとしての階段を少しづつ上がっていますよー。

尾張藩は10代・斉朝が藩主になった頃合いだし、平沢九朗が隠居し、茶の湯・作陶三昧に入った頃合いで、豊楽焼では二代が没して、三代がメキメキと頭角を現してくるチョット前…そういえば茶人・河村蝸牛の晩年でもある…。

こんな感じで、このころの尾張周辺の時代背景として、茶の湯、煎茶、陶芸などなど、文化的活動への興味関心が高まりつつある頃だった…というイメージが即座にできれば、あなたも一端の尾張国焼マニアになれる素養があるでしょう(笑)

笹島焼の特徴

そんな時代に始まった、笹島焼の特色として「絵付け」があります。

牧穆斎は尾張の絵師・張月樵に絵を学んだとされ、このほかに彫刻を得意とし、この両方を生かせる生業として、陶芸を始めたといわれています。轆轤で成型するより、手捻り、または形押し成形によるものが多く見られ、作品の重きはボディの作りより、その絵付けにあったようです。

作品のほとんどがベースに「白釉」を用いているところからも、もっぱら「絵付け」をすることが前提となっていたことが窺えます。絵付けには鉄釉の他緑、黄、赤など色絵を用いており、絵と歌(狂歌)がセットになったものも見られます。茶碗の他にも酒器・食器を製作していたようで、おそらく様々なお客からの需要にこたえる形で製作したと思われる、軽妙洒脱な絵付けの器が現在に伝わっています。

また、文献上では「朴斎の評判を聞きつけた藩主の命により、萩山焼にも加わった」とされています。萩山焼とは、尾張藩の御庭焼で、10代斉朝のころに下御深井御庭に造られた楽焼の窯のことです(いずれ、この鉄道の旅で萩山焼も巡ります)。具体的にどの作品を指して「牧穆斎作の萩山焼」ということは分かっていません。

※おそらく、本焼(高火度焼成)だけをやってきた御深井焼ではカバーしきれなかった、楽焼(低火度焼成)の技術を御庭焼に導入するにあたって、その技術指導員として招かれたんじゃないか…という理解を僕はしています。「殿様に腕を買われた」とか、「御前制作をした」というのは、笹島焼の箔付けとして喧伝された「宣伝文句」のようなものだと思います。実際のところはどうだったか、今のところ、それを知るすべはありません。

ただ『尾張名所図会』(1844)にこの笹島焼が紹介されているのは、特筆すべきことであり、この一帯の地域で評判になっていたことは間違いないようです。

※ちなみに「尾張名所図会」は愛知県図書館のホームページで誰でも見れます!素晴らしいですね。郷土の歴史がバリバリ勉強できちゃう!笹島焼は尾張名所図会前編の2巻に載っています。

穆斎は安政4年(1857)に亡くなりますが、笹島焼はその後も2代、3代と続いたようです。

先述したように、明治時代になってこの田んぼだらけの田舎、笹島に初代・名古屋駅が竣工します。さらに駅の拡張工事が始まり、立ち退きを迫られたため大正時代に笹島焼は廃窯となりました。

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