尾張国焼鉄道の旅02:新栄町(金城東山焼)
名古屋市営地下鉄・東山線をご利用いただき、ありがとうございます。次は「新栄町」。
…というわけで、名古屋駅を出発して、次は東へ向かいます。
「尾張国焼探訪」の次の途中下車は「新栄町」。
駅名が「新栄町」なのに「新栄」にはない駅
トリビア的な情報ですが…名古屋に馴染みのない人も、馴染みがあっても、意外と知らない事実。
『地下鉄東山線「新栄町」駅は「新栄」にありません。』
僕もね…最近、知りました… r(・∀・;)
「東京ディズニーランドは千葉にある」みたいに、実際の地名と駅名のズレって、意外とあるんですよね~。
東京修行中、僕がよく使っていたJR山手線「目黒」駅は、品川区にありますし、「品川」駅は港区にあります。
なんでズレているかはさておき…「新栄町」駅があるのは、東区葵一丁目。
「葵」…という地名で思い起こされるのは…徳川家の家紋。やはり、名は体を表すのです。
尾張徳川家の別邸があった「葵」
この周辺は江戸時代、6万4千坪(ナゴヤドーム4.4個分!)にも及ぶ、広大な尾張徳川家の別邸があった場所なのです。
その名も「御下屋敷(おしたやしき)」といいます。
尾張 二代藩主 徳川光友は、休息と饗応の場として、延宝7年(1679)この地に6万4千坪の広大な「御下屋敷」を設けた。その後、代々の藩主によって、それぞれの時代と好みを反映した手が加えられてきた。広大な庭園は池を中心とする池泉回遊式の庭園で、享保20年(1735)には、七代藩主 宗春が八代将軍 徳川吉宗から拝領した朝鮮ニンジンをはじめとする薬草を栽培する「御薬園」も設けられた。宗春は幕府の方針に反する施策をとったため、晩年はこの屋敷に蟄居させられ、余生を送った。(名古屋市教育委員会)
名古屋市教育員会の看板を丸っと引用させていただきました。名古屋市内にはあちこちにこういう看板があるので、ついつい立ち止まって読んじゃいますよね~。
別邸の御庭にはもちろん…焼き物の窯が?
これは「尾張国焼探訪の旅」ですからね。やはりこの庭にも、焼き物の窯がありました。
宗春が亡くなった後、屋敷は天明2年(1782)の大火で焼失してしまいます。
そしてさらに後の時代、お茶が大好きであちこちで焼き物を作らせていた尾張家の殿様がいましたよね。
自らを「金城主人」と名乗っていた、十二代藩主・徳川斉荘です。御深井焼だけじゃなく、江戸の市ヶ谷、戸山藩邸の庭でも焼き物を作り、さらに尾張でもやっていたのです。
これは以前も紹介しましたが…よっぽどの数寄者ですよね。
天保年間(1830~44)、この御下屋敷の庭内に窯が造られ、瀬戸や赤津の職人を招いて焼き物を作らせていたといわれています。
金城東山焼
ここで焼かれた焼き物には「東山」「金城東山」などの印が捺されたものがあります。斉荘も名乗った「金城主人」の金城とは、名古屋城のことです。
この御下屋敷が「名古屋城から見て東側」にあったため、「東山焼」という名前を付け、「金城東山」などの印を用いたと考えられています。
が、「東山焼」というと実は全国に同一の名称・漢字の窯業地が存在しています。(姫路の東山(とうざん)焼など)
ですので、混同を避けるために現在では「金城東山焼」という名称で呼ばれることが多いです。
超希少な焼き物
この金城東山焼の一番の特色としては…まず数が極めて少ないです。
時代背景や位置づけとしては、ここで作られたのは産業的な焼き物でも、御深井焼のように下賜を前提とした政策でもなく、「お殿様の趣味」で作られた焼き物ですから、そもそもの絶対数が少ないと考えられています。
そして、お茶好きの殿様・斉荘の趣味ですから、やはり作られたのは茶の湯で用いるもの。香合、菓子器などが知られています。
「東山」の印のモノも、この金城東山焼として図録に載っているものもありますが…。比較対象が極めて少ないため、どこからどこまでの線引きさえ、今もって難しい焼き物でもあります。
同一名称の窯がほかの地域にも点在していたことから、この線引きは慎重を期す必要があると思っています。「金城東山」の在印であれば、ほぼほぼOKだとは思うのですが、まだ全容が分かっていない、とにかくレアな焼き物です。