尾張藩の茶道-数寄大名

「御数奇屋(御茶道)」の有楽流一本化を画策し、有楽流の全盛期を迎えていましたが・・・天保10年(1839)に、あの殿様が尾張にやってきます。

尾張の殿様は数寄大名の夢を見る

さて、あの殿様とは・・・・12代藩主・徳川斉荘です。

徳川将軍家の子として生まれますが、御三卿である田安家へと養子に出され、茶道は裏千家を継承した玄々斎精中に学び、そこで楽しい毎日を送っておりました。ところが、幕府の命で突如、尾張藩12代藩主となることが決定。これに対して藩内に大きな反発を生んだらしいです・・・。

そんな政治の状況を知ってか知らずか・・・尾張藩へ移ったことで、さらにやりたい放題、斉荘は楽しみつくします。その功績(功罪?)から察するに「金や政治のことはよーわからんが、茶の湯のことなら大好きだ!」という御殿様だったように思います。

実際、藩の財政が悪化して、天保13年(1842)には幕府から藩政停滞について叱られちゃってます…。

自らを「知止斎」と号したり、御庭焼だけにとどまらず、尾張藩内のさまざまな窯で茶陶の制作を奨励し、茶碗や茶入を作らせ、または自分で作ったり、茶器に箱書して銘をつけたり、京より玄々斎を呼び寄せ、渡辺規綱(玄々斎の兄であり、藩老)と一緒に茶事を楽しんだり・・・・・・まー、とにかくお茶が大好きだったのは明白です。

またこういった行動のひとつひとつに、先の時代の茶人・数寄者たちに強烈な憧憬を抱いていた人なんだろうなぁーとも感じます。

この影響か、御数奇屋頭に突如として箕田宗範の名前がひょっこり出てきます。この人は渡辺規綱の子(規綱の弟とも言われる人)で、同様に玄々斎の薫陶を受けた人でもあります。恐らく斉荘の催した茶事に関連し、必要に迫れれての登用だと思います。(たぶん、裏千家の知識を有する人材が御数寄屋にいなかったんでしょうね…)

あれれ…なんかまた御数寄屋がぐちゃぐちゃしてきましたね~。お殿様に振り回され、内心イラッとしてる御数奇屋の様子が浮かびますなー。(苦笑)

いろいろあったけど・・・やっぱ有楽流で

斉荘没後、田安家から慶臧が12代藩主を継ぐも若くして世を去り、慶恕(慶勝)が13代藩主になったことで、尾張家の血筋が復活。これまで、将軍家から「藩主を押し付けられてきた」経緯もあって、相当に藩士の間には不満が溜まっていたようです。

その反動ともいうべきか、襲封の10ヵ月後に

当家は原と有楽流を宗とす ゆえに若し事があれば旧流を以って勤むべし

と示し、再び藩の流儀として、有楽流の一本化を宣言しています。わざわざ宣言する、なんてちょっと物々しい感じっすね。

武家茶道であることにこだわりがあった?

ここまで尾張藩の御茶道・御数寄屋に添う形で流れを追ってきましたが、ここで一旦区切りたいと思います。

これはあくまで個人的な感想なのですが、尾張藩の御茶道・御数寄屋のなかでも派閥的なものがあり、「保守的・主流派(武家茶道・有楽流)」、「リベラル・諸派」に分かれるのかな…と。流儀を対立軸で考えるのはあまりよくない気もしますが。「尾張藩の流儀は有楽流」というのはこれまでの事象を鑑みても、事実でしょう。ただ一部はそうでもなかった(藩主である斉荘は別格としても)。

今回、詳しくご紹介しませんでしたが、御数寄屋のなかから「千家茶道の勉強」を願い出ている人もいます。これが藩の主導によるものなのか、リベラルの反発行動の一種なのか…正直、判断が難しいところです。また遠州流の中興の祖として知られる、小堀宗中は尾張藩の依頼を受けて、御蔵器財の分類・目利き・整理を行うため名古屋にやってきたり、一概に「尾張は有楽流」とも言い切れない一面があるのも事実です。

通り一遍等にならず、様々な流派を受け入れる土壌がすでに藩の内部にもあった、ということが驚きですよねー。これが現在の名古屋の茶道界隈の下地となっている…そう感じます。

さて藩としては、こんな感じで茶の湯が展開されてきましたが、町方はまた違った動きを見せております。次回からはその辺にスポットを当ててみようと思います。

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