尾張の茶の湯NEXT10:井出退甫

補遺編の最後は、激レアを超越した…幻の茶人…?

尾張の茶の湯NEXTシリーズにおける【補遺編】ということで、江戸中期~後期の尾張の茶人で、特に余技として陶器の作品を残した人を取り上げています。

現在に伝わる情報が少なく、詳しいことが分かっていない人が多いです。今回は情報そのものが整理されておらず、詳細不明でも存在は確かだろう、幻の茶人について…。

「幻」の茶人…?

2023年のアートフェアで特集した、「Revival 一樂會(第1回)」で取り上げた、5人の尾張余技作家の中で…唯一、展示する品物がなかった人物です。

オリジンである大正12年(1923)の一樂會でも、この井出退甫にまつわる陳列品は僅か2点(茶碗・中次)だけ。当時でも極めて珍しい品だったはずです。それほど関連する作品が少ない、ということ…。さらに言うとこの人物について、いろいろ分かっている情報も限られ、精査もされいない、という状況です…。

僕的には「まだこの人に関連する道具を見た事がない」という意味で、「幻の茶人」といえます。

千村伯就の実弟・退甫

井出退甫(いで-たいほ)という人物について。分かっていることはかなり限られます。

各種資料によって、この人の名称自体がブレまくっています。古めの資料から紐解いていきます。

まずは、すっかり勉強部屋ではお馴染となった「尾州千家茶道之記」。安永3年(1774)に成立した資料です。

ここにはほんの1行だけ、退歩と思われる人物が出てきます。

井出泰甫

始め曲全斎門下で後に久田宗渓へ入門し、久田宗参までの弟子で懇意なり。

「尾州千家茶道之記」

文字が「泰甫」と違っておりますが…読みは全く同じ「たいほ」でしょう。

書かれているのは「武林の方」の項目であり、泰甫の直前に「千村総吉(=伯就)」が列しており、この資料自体に「二人が兄弟であること」を示す文言は一切ないのですが…後に示す資料でその関係性は明らかなので、やはりこの人は「井出退甫」の事を指していると考えます。

曲全斎の門下で、後に久田宗渓(挹泉斎宗渓)、久田宗参(両替町久田家・関斎宗参)の兄弟に茶を学んでいることから、やはりこの人も武家の出身でありながら、千家の茶を学んでいたのだろうと推察します。

次に「尾張名家誌(初編)」です。こちらは安永4年(1857)に細野要斎先生によってまとめられた、尾張の儒家についてまとめた伝記資料。尾張名家誌は細野要斎の没後にその遺稿を基にまとめたられた「尾張名家誌(二編)」があるので、間違えないように…。(香西文京の時に「風禅」を参照したのは、こっちの二編の方です)

この初編の儒家の一人に「千村鵞湖(=伯就)」の項目があり、その中に「鵞湖、二弟あり」として、弟の事が付随して書かれています。

鵞湖、二弟あり、仲(なか)は知亮、字は識明、鳳山と号し、幼にて淑質あり、其詩、鵞湖に雁行す。

(※原本は漢文につき、読み下しを記載)

尾張名家誌(初編)より千村鵞湖の内容の一部抜粋

この資料自体が「尾張の儒者」についてまとめた書物であり、千村伯就がメインなので、弟については本当にサラっと書いてあるだけです。兄の鵞湖(伯就)が漢詩人でもあり、その兄に「雁行す(=横に並ぶ)」ぐらい、弟の識明も漢詩に優れていた、ということでしょう。ちなみにここには「井出」という姓も、「退甫」という号も、一つも出てきません…。

続いて、大正12年(1923)の一樂會誌 一」の巻末にある伝記に「井出退歩」の項目があります。ここでは「退」となっていますね…。

井出退歩

井出健之進識明は尾張の士なり。井出鼎臣(後に千村氏に復す名は良重致仕の後潜夫と称し号を夢澤という)の次子にして、千村伯就の弟なり。父の家領を継ぎて馬廻となる。茶を好み陶を作り退歩と号す。又破鏡庵の号あり。寛政十二年十一月二十八日歿す。高岳院に葬り、法号を轉譽退歩居士という。

(※句読点は原文にありませんが、便宜的につけております)

一樂會誌一

ここでようやく「井出」姓がでてきましたね。

「茶を好み陶を作り」ということで、尾張の余技作家の一人であると認識されているのです。没年が分かっているのは、恐らくこの時代に退甫の墓碑を調べたのだと思います。今でこそ、名古屋市内にあった279のお寺の墓地は「平和公園」に移設されておりますが、大正12年であればまだ各お寺の敷地にあったのだと思われます。各地に点在しているので、この時代に調べるのはさぞ大変だったことでしょう…。

「千村伯就の実弟」なのに、どうして姓が違うのか?

この謎を紐解くには、伯就と退甫の父である「千村良重」について知る必要がありました。

伯就と退甫の実父・千村良重

伯就と退甫の実父・千村良重も優れた儒者であり、先ほどご紹介した「尾張名家誌(初編)」では、千村鵞湖と並んで紹介されています。

千村良重、字は興臣(※原文ママ)、夢澤と号す。通称は勘平。致仕し潜夫と称す。幼而、井出氏の養子となる。後、本氏に復す。

(※原本は漢文につき、読み下しを記載)

尾張名家誌(初編)より千村夢澤の内容の一部抜粋

父・良重ははじめ、井出家の養子に出され、井出家の家督を継いでいるのです。

長男である伯就は、良重の実家である千村家の祖父に預けられ、千村家の家督を継いでいます。何らかの理由で良重が養子に出た後、千村家を継ぐ男子がいなかったのでしょうね。ゆえに井出家よりも優先的に千村家へ実子を預けて、家督を継がせた。

二人目の息子である退甫は、井出家で成長して実父から井出家の家督を継いだ。井出家の家督を退甫に譲った父は致仕して、井出姓から千村姓に復帰した、ということなんですね。

個人的に、ここまでの内容は人物名の表記の揺らぎこそあれ、納得がいきます。この時代、藩士の家は後継ぎがいない場合、他家から養子に貰ってでも家を継いで残すものです。故に今の時代以上に、柔軟に養子の行き来があったのだろう、という想像は難くありません。

伯就に実弟がいて、ひとりは井出家を継いだのは確かな事だろう、と思います。

もう一人の謎の弟

最初にご紹介したように、資料によってこの「井出退甫」の表記がブレまくっており、じっくり検証しないと「間違った情報が混在している」ような気がするのです。

少し時代が前後しますが、次に参照するのは尾張国焼マニアのバイブルとも言うべき「をはりの花」です。こちらは大正9年(1919)に刊行されておりますが、一樂會誌とも尾張名家誌とも微妙に記述が異なっているのです。

退甫

退甫は尾州の臣井上豊次郎と称し、寛政年間の人なり。千村伯就の実弟にして、文学に名あり。茶事をよくし、勤仕の余暇に自ら楽として陶器を作り、その作伯就に似たり。

「をはりの花 風の巻」 「非工匠之部」より抜粋

まず名字が違います。「井出」と「井上」の読み違え、あるいは書き間違えで済めばいいのですが…「豊次郎」はいったいどこから出てきた情報なのやら、わかりません。ただしその他の内容は共通する点があり、同じ人物について説明しているとは思います。

ただ困ったのはもう一人、千村伯就の弟が説明されていることです。

跂石

跂石は竹腰山城守の老職、竹腰左織と称し、文化年間の人なり。千村伯就の実弟にして、文学を能くし、又茶事に委し雪塵斎、又、無外庵、跂石、識明等と号し、往々陶器を作る。其作、皆雅致に富み、上好の器にして左の符あり。

「をはりの花 風の巻」 「非工匠之部」より抜粋

「尾張名家誌(初編)」では、「鵞湖、二弟あり」とあるので、もう一人の弟が出てくること自体、間違ってはいないと思います。

季は春友、字は東菜、駒嶽と号す。父に従て句逗を受く。稍々長じ医を櫻井桃山に学ぶ。父没し後、他邦に行く。

(※原本は漢文につき、読み下しを記載)

尾張名家誌(初編)より千村鵞湖の内容の一部抜粋

「季(すえ)は」という記述で、伯就は3兄弟だったことが分かりますね。

そして「をはりの花」によると世代が微妙に違います。寛政年間(1789-1801)と文化年間(1804-1818)。跂石の方がと年下の弟っぽいですね。

しかしですよ…「尾張名家誌(初編)」では、真ん中の弟が「字は識明」でしたが、「をはりの花」では年下の跂石に「識明と号し」という記載があるではないですか…。識明は真ん中の弟の事じゃないのか…?

しかも年下の方の弟について、方や「医者になった」とあり、方や「竹腰家の老職」とあり、名前や号なども共通する所がなく、明らかに齟齬が生じております。ここまで違うのだから、まったく別の人物(or致命的な誤植)だと考えるべきでしょうが……これを間違いだと断ずる証拠もありません。

そうなると「伯就は3兄弟」ということ自体に疑問符が付きます(異母兄弟という可能性も無視できない?)。

この「もう一人の弟」については、謎が多すぎて未だ存在もよく解っていません。

継続研究が必要

といった感じで、伯就の兄弟はこんがらがった状態になっております。

引き続き、文献資料などを探して調べていく必要性がありますが、そればっかりやるわけにもいかないので…とりあえず今回はココまで。

尾張の茶人NEXT【補遺編】も同時にここで切り上げます。

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