尾張藩の茶道-有楽流(御家流)

勉強部屋 コメント : 2

いろいろややこしー感じで、尾張藩の茶道の前半をご紹介しました。

尾張藩は茶道の専門家集団を組織し、様々な人から茶を学び、藩の中に茶道人口が増えて行ったことが伺えます。

今回はここから、有楽流の茶に一本化していく流れをご紹介します。

千家茶道の萌芽が始まる

いきなり話が逸れますが、1700年台から、名古屋の町方ではにわかに千家茶道の萌芽が始まります。

町方の有力商人を中心に「きちんと体系化された、師伝正しき茶」を習い、お茶を楽しむ人たちが「我も我も」と、ゾロゾロ現れるのです。この町方で始まった千家茶道の萌芽は後日ご紹介しますが・・・以降のお話をする「前段階・時代背景」として、名古屋がそういう状況になっていた、ということが一つの鍵となるのです。

分岐点

時は流れて、8代藩主・宗勝の治世(1739-61)。(いろいろ尾張藩がゴタゴタしはじめた時期でもありますが、その説明は他に譲ります)

宗勝からの命を受け、江戸の松本見休のもとへ山本道伝沖久伝の二人が派遣されます。この松本見休は、前回でてきた見休の子で、二代見休。号を「芦泉」といい、父より茶を学んだ、貞置流(有楽流)をマスターしていた人物です。この人の指導で、二人は有楽流の茶を勉強することになります。

なおこの山本道伝も、前回出てきた道伝の子孫。代々、織部の流れを汲む茶風を継承してきた家だったと考えられますが、このときに有楽流へと改めたわけです。

これが一つのターニングポイントと見られ、このころに「藩の茶道」として流儀の一本化を図っていたことが伺えるのです。派遣された二人は後に「御茶道頭」へと出世し、指導者の立場になっていることからも、そういう意図を感じます。

また見休自身もその後、江戸藩邸(江戸にあった尾張藩の屋敷)の出入りを許可され、そこで「茶道(指導者)」となっています。藩の中で有楽流が多数を占めるようになるのはこの頃からだと考えられます。

とある茶碗の書付

またしても話は脇にそれますが・・・この松本見休(芦泉)という人がどうしてもに気になって、猛烈に調べた時期がありました。

まだ修行中のころ、あるお茶会で某美術館所蔵の有名な茶碗を見させていただく機会がありまして・・・。その箱蓋裏の隅に「芦泉」と記されており、この人物は一体誰なのか・・・気になっちゃうのが道具屋の性。

しかし道具屋の先輩方も、お茶の先生も、学芸員の方も、みんな分からなかったんですよねー(「お前のような若造には教えない」という可能性も…まさかぁ…)。こうなりゃ、自力で調べるしか有りません。

号の下には大変几帳面な花押が書かれているのですが、これも謎・・・。何重にも仕立てた箱の一番内側、内箱の蓋裏に書かれているものですから、そこそこ古い時期の書付ではあると思うのです。いろいろ調べて、この「芦泉」が松本見休(二代)の号だというのが分かったのですが、この書付1点だけで松本見休だと決め付けるのは、やや早計。この茶碗の書付以外で、未だに「芦泉」というのを見たことがありませんしね・・・。松本見休(芦泉)にまつわる道具が他にもでてきたら、この茶碗との関連性も明らかにできるかもしれません。

ごっつい有名どころ(大名系統)の伝来が、はっきりわかっている茶碗なのですが、途中の伝来がちょっと飛んでる・・・ような?時期的にひょっとしたら、この茶碗は一時期江戸の尾張藩邸にあったものなのかもしれない、もしくは芦泉自身が所持していたのか、それとも江戸で箱書を依頼されただけなのか・・・。あまり飛躍した想像も禁物ですが、これがまた道具の面白さでもあるわけです。

不思議に感じ、疑問を抱いて、それを紐解き、また紐付けていくのってワクワクします。道具に残された歴史の断片、とでもいいましょうか。一見すればただの「碗」なのに、見方を変えると時空を超えた遠大な世界が広がっている。よく「奥が深い」なんて言葉ありますが、若造ながら「奥が深いってこういうことか」と、思い知らされた瞬間でしたねー。

いやいや、かなり脱線しました・・・閑話休題。

この改流をさせた理由は定かではありませんが・・・最初に述べた「千家茶道が普及し始めた町方」の状況を踏まえると、「有楽流への改流」の意図するところがうっすら見えてきます。

察するに藩士の中に茶道人口が増え、千家流を習う武士も現れたことで、現場の混乱を招かぬよう、流儀・作法を一本化したというのがまず1点。一方で千家茶道が武士の間で流行するのを良しとしなかった、藩の上層部の判断で「ウチは(武家茶道の)有楽流だぞ」と定めようとした、という側面もあったのではないでしょうか。

有楽流が藩の流儀として広まる

道伝、久伝が有楽流へ改めて以降、数奇屋頭を含めて有楽流の門下となる人たちが増えていきます。その中でも格別に尾張藩から評価されている人物に、平尾数也(心空庵吉章)という人います。

平尾家はもともと初代藩主・義直のとき、大陸の明からやってきた渡来人(曹数也)が帰化して尾張藩に仕え、のちに松平の「」と尾張の「」から「平尾」の苗字を賜ったことから始まる家で、心空庵吉章はその家の六代目になります。代々、「御茶道」「御茶道頭」として藩に仕え、有楽流の茶を学んでいました。

中でも心空庵吉章は先述した山本道伝より、有楽流の茶法を教わり、また自身も「御数寄屋頭」として、優秀な人材を多数教育しております。その結果、文政6年(1823)、「茶道格別の功者」と功績を認められ、武士としての格を上げられます(かなり名誉なこと)。さらに天保4年には、数十年来の功労により「御目見以上元高三十俵」に「百俵の足高」を加えられています。心空庵吉章が有楽流の茶を教える立場にあり、尾張藩はこれだけの評価をしている点から鑑みるに、この前後の時期が恐らく有楽流の全盛期といってもいいでしょうね。

粕谷常斎、中島円弥などの有楽流の御数寄屋たちを育てた心空庵吉章は、この数か月後に亡くなります。そしてその数年後、また別の転機が尾張藩に訪れます。

次回、あのお殿様が登場です。

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コメント

2 件のコメント

  • 長谷義隆 より:

    ブログを興味深く拝読しました。
    芦泉書き付けの名物茶器だと、確か本阿弥井戸があったと記憶しています。小生所持の竹花入の在判花押と花押が一致していたことから、記憶にとどめております。ちなみにこの竹花入は書状が添っており、内容から芦泉二代目松本見休が道伝の需めに応じて贈ったものと判断されます。小生所持の有楽流の秘秘書(孤本)には、見休の教えがちりばめられており、茶書の上からも相伝の関係がしのばれます。
    尾張名古屋の茶の湯の歴史について、
    通説では茶道全盛期の安土桃山時代から江戸初期については空白期になってましたが、微力ながら小生、その空白を埋める史料を鋭意発掘すべく調査中です。ご高配、ご教示くださいますように。
    末筆ながら、ご健筆期待しております。

    • MasterMK より:

      こんにちは。コメントありがとうございます。ヾ(´▽`*)
      なんと、こんなに早くネタバレしてしまうとは……おっしゃるとおり、本阿弥井戸でございます。やはりあの書付は松本見休のものなのですね~。他に例を見たことがないので確信を持てていなかったのですが…。ちょっとスッキリしました、ありがとうございます!機会があればその竹花入も拝見してみたいですねぇー。

      >尾張の茶の湯の空白
      いろいろ文献を頼りに勉強中なのですが、どうも通説では「空白期」となっているようですねー。茶道に関する歴史って、一次資料が極端に少なく、それを解明していくのはなかなかに困難ですよね…。何か見つかれば、この通説は見直さなければならないと思いますが、色々文献を読み漁った個人的な感覚では「尾張の町方茶道は江戸中期までろくに展開されていないのでは?」という印象を受けます。その辺のことも、今後勉強部屋でとりあげていきますので、よろしくお願いいたします。< (_ _)>

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