尾張藩の茶道-御茶道とは

昨夜、ホトトギスが鳴いておりました。特許許可局!・・・もう夏ですなあ。

前回、遠州さんが「はー、田舎だわぁ」と嘆いた名古屋の状況をご紹介しました。

江戸に入ってもまだまだ茶の湯の伝播は芳しくない尾張名古屋・・・。しかしそれもある意味では一個人の見解の一つであり、尾張藩としては積極的に茶の湯を奨励していた、という事実も忘れてはならないことです。今回は「藩の茶道」にスポットを当てる、前段階。ちょっとした予習編です。

尾張藩ができるまで

まずは尾張藩ができるまでをサクサクっと。

信長が本能寺の変で討たれ、信長の遺領は信孝、信雄、福島正則と支配者がコロコロかわります。

関が原の戦いで徳川方が勝利すると、福島正則は安芸へ移封(大幅加増)、代わりに徳川家康の四男・松平忠吉が尾張の国をを治め、「清洲藩」が成立します。しかし、関が原の戦いの傷が元で忠吉は若くして亡くなっちゃいます。

慶長12年(1607)、忠吉に変わり、家康の九男・五郎太(とくがわ よしなお・7さい)が尾張国清洲藩主となります。ただ幼すぎるので、名目上の藩主として、五郎太自身はまだ駿府(静岡)にいます。

慶長15年(1610)、那古野城跡に西国諸大名の助役による天下普請で「名古屋城」の築城が始まります。急ピッチで作事が進められ、慶長17年には天主が完成。(早っ・・・)元和2年(1616)に、義直が尾張入府となります。

ちなみに、この名古屋城の築城に際し、清洲にあった城下町をごっそりそのまま、名古屋に移しており、これが「清洲越し」と呼ばれます。この辺のこと、面白そうだからブラタモリでやってくんねーかなあ・・・企画通ったら、うちの近くに来るかなー?

御茶道頭(御数奇屋頭)

さて、前回ご紹介した「尾張の茶道」の中に、有楽流15代の織田長繁の著した「尾張藩における有楽流」があります。今回はこちらを参考に、尾張藩の茶の湯を紐解いて見ます。

義直入府後の寛永5年(1628年)、「御茶道後御茶道頭」が命じられます。尾張開府当時、すでに諸藩では「茶道の専門家」を招き、様々な茶道にまつわる指導・教育を行わせており、尾張藩もそれに倣って、茶道の専門家集団を組織したという記録が残されているのです。

千家でいえば宗旦の息子たち、江岑宗左(表千家)が紀州藩、仙叟宗室(裏千家)が加賀藩、一翁宗守(武者小路千家)が高松藩にそれぞれ仕官していたのも、その1例ですね。

上使到来の際の接待として、茶事はつきもの。藩の上級の武士たちがお付き合いをする上で、茶道は必須のスキルだったわけです。また義直は大変学問を奨励した人としても知られ、お茶の様々な実働部隊はもちろんのこと、知識のある人間を増やしていくことも重要視し、組織化を図ったのでしょう。

その組織の人間は「御茶道(おさどう)」という役職があたえられ、その組織のを取り仕切るのが「御茶道頭(おさどうがしら)」です。このほかにも時代の変遷とともに「奥御茶道」や「御茶道小頭」など、組織の役職は細分化されていきますが・・・ここは割愛させていだきます。基本的に「御茶道頭」が指導者・責任者として、さまざまな教育を施し、行事の指揮をといっていました。彼らの職掌は毎日三度の勤め、煎茶、恒例のものは元旦の大福茶、臨時のものには上使到来の際の濃茶、諸客接待の場合の茶事だったそうです。

御三家筆頭の格を有する尾張徳川家だけあって、やはり名称など含め、幕府に倣って組織されているんでしょうね。後に「御茶道」から「御数寄屋」と、名称が変わるのも、幕府に倣ってのことでしょうし・・・。千家が仕える他の藩では「茶頭(さどう)」と呼ばれているところもあります(単に略称なのかもしれません)が、この違いに「徳川家」としてのプライドみたいなものを感じます。

「尾張藩における有楽流」においては、いきなり有楽流の流れを説明しているのですが・・・時代が前後してちょっとややこしいので、尾張藩の時代の流れに沿ってみていくことにしましょう。

続きは次回。

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