尾張の町方-太郎庵

椿の品種にその名が残る、「太郎庵」。まだまだ続く尾張の茶人シリーズ。

高田良斎

名古屋の七間町・「藪下屋」の三郎左衛門。家は代々飼馬を生業としていました。

先述した教授寺同好会の一人であり、道幽、野水、曲全などとともに、もともとは中島正貞(正員)に宗和流の茶を習っていました。

また、20歳頃から京都で画を狩野常信に学び「朴黄狐」「良斎」などと号しました。この人は画も上手な人で、掛軸など現在に伝わっております。

最近は商品紹介ページの更新をサボっているんで…ここでちょこっと掛軸のご紹介。

こちらは高田良斎筆の「東方朔」。

東方朔「ウッシッシッシ、これがあの西王母の桃じゃぞ~。」

いやぁ…いい顔してます。(笑)

常信に画を学んだだけあって、笑っている人物でも眼の鋭さに独特の特徴が感じられます。

簡単に画題の説明をしますと、ここに書かれている人物の名前が「東方朔」という中国の仙人です。三千年に一度しか実が生らず、食べると不老不死になれるという、西王母の桃を盗み食いして、八百歳まで生きたという伝説が元となっています。

古くから中国では、桃の実は病魔や災厄を寄せ付けず、長寿をもたらすといわれていました。そんな桃を盗んで食べた話で有名なのは「孫悟空」ですが、東方朔もその一人。東方朔は長寿の桃にまつわる、縁起のいい画題としてしばしば描かれます。

不老不死の桃ををGETして、いかにも嬉しそうな様子がいきいきと描かれてますねー。

閑話休題。

話を太郎庵に戻します。この人も岡田野水の勧めで表千家に転じ、原叟の門下として茶を学びます。

「鈍太郎」、GETだぜ

「太郎庵」の号の由来は、ある茶碗を三郎左衛門が入手したことに始まります。

享保6年(1721)、江岑歿後50年の追善の茶会の際、茶会のくじ引きで原叟手造の楽茶碗「鈍太郎」を引き当てたのです。これがさぞかし嬉しかったのでしょう。これを期に自らを「太郎庵」と号したのです。

ちなみに。時は流れて明治時代…この「鈍太郎」はもう一人の茶人の名前の由来ともなっています。

こちらの方が茶人の名前としては有名でしょうね。三井物産の益田孝です。この人もこの「鈍太郎」を入手し、自らを「鈍翁」と名乗るのです。

道具を介して不思議な縁で結ばれ、時空を超えてつながる人と人。この鈍翁が後に関東大震災で被災し、はるか昔に太郎庵が居た名古屋へと疎開してくる、というのも、不思議な縁を感じます。

キッチリした性格だった?

「尾州千家茶道之記」に、ちょっと面白いエピソードが載っているのでご紹介します。高田三郎左衛門が切屋浄順という人に相談したという内容。

「宗左へ折々参って稽古すれども、宗左の教え方は時により替わりて一定ならず。我等の愚鈍には聞請けて受用になりにくし。これを迷惑に思う」

意訳すると、高田三郎左衛門が「宗匠の言ってることがその時々で変わってしまい、ワケわかんない。どうすりゃいいの?」と困って、切屋浄順に相談していた、というお話。これについて著者の千竹屋遅松はフォローを入れています。

「是は覚々斎が生得活気の人にて茶の湯の妙は宗旦を慕いて、万事規矩を用いて却って規矩に拘泥(こだわ)らず。心と手と会する事を旨として些細の技には拘泥らず。是によりて初心の者は一定の説明なしと思うも理なり

なるほど、遅松は茶の湯をよーく勉強している人だなぁーと感心させられる、フォローの仕方ですね。

お点前の細かい手順・動きはもちろん大事です。「お茶を習う・学ぶ」という言葉の中には、「作法を身につける」という意味が内包されているのは、もはや言うまでもありません。

ただ茶の湯では「主(あるじ)として心を尽くすこと」「客として心を通い合わせること」も大切であり、それらを学ぶのも茶の稽古。そして特にそれを大切にしたのが原叟だった。

常に変化する状況(季節・時間・天候・取り合わた道具・客との関係etc…)に合わせ、点前の動きがわずかな部分でも変化するのは、それだけ「心遣いのバリエーションがある」というものでしょうか。またそうした心遣いは「どうだ」と主張するもの野暮ったいし、相手が感じ取ってあげることが肝要。それが主客一体となった茶の湯の面白さであり、またそれを感じ取れるようにするのも修練の一環、ともいえるわけです。(なかなか、説明するのも難しいです)

「ただこれは初心者にはハードルが高く、なかなか分かりずらいもの、しょうがないよねー」と、遅松は言います。心を尽くした結果として、稽古で言ってることが時々で変わってしまう、というのは原叟にとっては当たり前のことで、それが初心者の三郎左衛門を当惑させたのかもしれません。

お茶に限らず、習い事をしている人なら「あるある~」って話かもしれませんねー。

先生の教え方が、「あう」「あわない」って、こんな時代からあったのかもしれません。

きちっと「基本的な作法」を学びたい太郎庵、細かい動作以上に「心」の大切さを教えたい原叟。さてさて、どうしましょう。

切屋浄順は自らも師事していた久田宗也(4代・不及斎)を「同じ表千家のお茶を、初心者にも細かく丁寧に教えてくれるよ」と紹介。結局、高田三郎左衛門は「自分はまだまだ愚鈍で宗匠の教えを理解するに至らず、まず細かいところをきちんと教わりたいので、宗也さんに教えてもらいます」と、原叟に願い出て、これを承諾してもらった、という話でした。最終的に、太郎庵は久田宗也より真台子の皆伝を受けています。

決して「原叟の教え方が下手っぴだ」「太郎庵は頭の固い奴」なんていう話ではありません。自分にとって適切な師匠に習うことが、大事であるということですね。

次回で一区切り

ずいぶん長々と「尾張の茶の湯」について取り上げてきました。江戸・京に比べて遅れをとりながらも、尾張でも茶の湯文化が広がり、こんな茶人たちが出現し、楽しまれてきた様子を感じていただけたでしょうか。

ここらで一区切り。最後は、この「尾州千家茶道之記」を残した、大橋遅松について。

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