尾張の町方-河村曲全
正員、道幽、野水と名古屋の町方茶人を紹介してきましたが、いよいよ有名どころに突入です。ここまで長かった…。
天満屋曲全
河村九兵衛は材木商「天満屋」を営んでいた豪商。通称を九兵衛といい、「曲全斎(または曲全)」と号します。先祖はもともと大阪・天満の商人で屋号も恐らくそこから来ているのでしょう。
かの教授寺同好会の主要メンバー一人でもあり、また当初は中島正貞(正員)について、宗和流の茶を学んでいました。後に野水の勧めで表千家に移り、度々京へ上って原叟の門下になります。
一方、名古屋では野水の嘆願で町田秋波が名古屋に出張稽古に出向くこととなりました。
秋波の没後(1723)、曲全が「代わりとなる茶匠を他に呼べないか」と原叟に相談しています。その結果、松尾宗二(楽只斎)が尾張に派遣されることになります(1724)。この人より後の松尾流へとつながっていくのですが、当時はまだ京都から名古屋へ出張稽古をする「表千家の出張教授・松尾宗二」です。
秋波の後も、引き続き京から表千家の教授が派遣されたことで、名古屋における表千家の隆盛は確固たるものになったのでしょう。野水と曲全の二人は、尾張の町方茶道隆盛に深くかかわった人物といえます。曲全はその後も京に上り、茶の湯の修練に励み、如心斎から真台子の皆伝を受けています。
そして晩年は、この「尾州千家茶道之記」をまとめた、千竹屋遅松の師として、尾張の茶の湯の歴史を手繰る手がかりとなる、様々な教えを授けているのです。
数寄者・曲全
曲全は古器書画の鑑識にも通じ、裕福な商家でもあるゆえ、様々な道具を所持していました。また手造の茶碗なども制作しています。
中島正貞、伊藤次郎左衛門、岡田野水たちによって尾張で茶の湯の萌芽が始まり、一気に茶の湯文化が花開いた時代。そのど真ん中世代にあたるのが曲全や高田太郎庵といえます。この2人は名古屋の町方茶人を代表する2人ですね。ゆかりの道具も現在に伝わっております。
いわゆる「茶人の逸話」がぽつぽつ出てくるのもこの世代からですかね。嘘かホントか、真偽の程は脇において、こうした話が後世に伝わるというのは、それだけ名をはせたことの証左でもあるのでしょう。ちょっとご紹介しましょう。
松影の茶入と五尺の梅
近所で火事があり、曲全の自邸も危うい状況かと思われる中、約束していた京都の道具屋が家にやってきました。
「ごめんください。あの…ご主人、近所で火事が…」
「やあやあ、よく御座った。さあさ、珍器を持ってきたろう、見せておくれ」
火事にひるまず、その場で道具を見て「松影」という茶入を数百金を投じて即座に買ったという話が伝わります。火事を逃れたのかどうかは不明ですが、まあなんともなかったのでしょう。自邸のピンチに飄々として、むしろ道具が気になっちゃうという、いかにも数寄者っぽいエピソード。
この他に、茶人としてのエピソードも伝わります。
曲全の実力を試してやろうと、意地悪な門人が五尺(約1.5m)の梅を持参して、曲全の元を訪れました。利休さんの教えに「花は野にあるように生け」とあるが、床の間には入りきらないこの巨大な梅を、いかにする?これで曲全の技量も知れるはず…。
そんな悪巧みを知ってか知らずか、曲全はこの梅の枝を切らずにそのまま水屋の大桶に入れ、水屋からわずかに茶室に覗かせるという趣向を披露し、門人たちを驚かせたという話もあります。
曲全流?
曲全について書かれてる書籍の中には、「後に曲全流を開いた」なんて記述があるものも有ります。うーん、「流儀」って、何をどうして、どうなったら「流儀」足りえるのか…なんだか、哲学的な話に発展しそうですが、この場合はそう深く考えずとも良い気がします。(過去に「貞置流」についても、軽く触れた内容とほぼ一緒です)
「貞置流」も「曲全流」も、この周辺の時代に関して言えば、「門弟を多く抱えた師の名前を冠して、○○流というように呼ばれていたのではないか」と、僕は考えています。
明確に流儀が違う、作法が違う、というわけではなく…単に「○○に教わっている」という表現をするため、こうした呼称が生まれた、というだけの話。やってることや思想・考え方は恐らく、そう違わないんじゃないか、と。
上記にもあるように曲全は表千家で真台子の皆伝を受けていることから、茶匠としてもかなりの技量を身につけていたと思われます。「尾州千家茶道之記」にも曲全門下と伝わる人物がぞろぞろ出てきます。多数の門下を抱え、それで自然と「曲全流」という呼称が生まれたのでしょう。
まだまだ…まだまだ…尾張の茶人シリーズは続きます。
次回は尾張の町方茶人の二大巨頭(?)のもう一人、高田太郎庵についてです。