尾張国焼鉄道の旅16:嘉楽焼(上前津)

忘れたころに…こそっと再開。

ちょうど2年前に「川名焼」をやって以来なんですね…。

地下鉄で「名古屋のやきもの」をめぐるネタなのですが、詳しくは「特集ページ:尾張国焼鉄道の旅」をご覧ください。

2年前に「時間のある時に紹介しそびれた焼き物も『補遺』としてアップします」といいながら…

すっかり忘れておりました。<(_ _)>

十軒店で「嘉楽焼」を出品した流れで思い出しました…。

というわけで、唐突ですが『尾張国焼鉄道の旅:補遺』を再開です。

補遺なんで、もう路線とか関係なく、単発でぽつぽつと…旅の風情もへったくれもありませんが、紹介していきます。

実はすでに紹介済み

地下鉄の駅としては、『上前津』ですが…もはや改めて紹介する必要はないですね?

『上前津』だけで、すでに4つも紹介済み…。

数年前にアートフェアでやった『前津小林村』のネタのうち、焼き物だけでこんなけあるわけですからね。

前津がどんな場所だったのか…現在の様子とまた一味違うけれども、とってもにぎわっていた場所だろうなー、ということが想像できますね。

栗田菊次郎

嘉楽焼は明治~大正時代の名古屋のやきもの。この窯を始めたのが、栗田菊次郎という人です。

実はすでに尾張国焼鉄道の旅の過去投稿で紹介済みの人物

改めて紹介しますが…

栗田菊次郎は慶応2年(1866)生まれ。幼少期より瀬戸の加藤五助川本半助に陶技を学び、井上延年のもとで16年間修業。その後は国定廉平を手伝ったり、松村製陶所に従事したのち、明治27年(1894)頃に前津小林村に窯を築きます。これが嘉楽焼です。

瀬戸の著名な陶家の下で技術を学び、染付・赤絵などの磁器系統のやきものに長けていたと思われ、当初はこの手の作品を恐らく生産していたと考えられます。阪本釤之助(名古屋市長)や鈴木惣兵衛(材木商・材摠)らが後援し、地元の名士たちの会合に呼ばれ、その場で焼き物を作ったと言われています。

絵付けのある焼き物がブーム?

八幡焼のページでも紹介しましたが、どうやらこの明治後期~大正期にかけて、名古屋では「絵付けのある焼き物」が流行っていたように感じます。

栗田菊次郎が関わった嘉楽焼、八幡焼に限らず…同時期の東雲焼、夜寒焼、不二見焼、鶴舞焼…みんな何かしら「絵付け」がある道具が多い印象を受けます。そういう点で、嘉楽焼や八幡焼は絵付けをした絵師が「現役バリバリの画家」である点が特徴的ですね。(他の窯でも、何かの特別な機会に絵師を招いて絵付けをしていることは割と見られますけどね…)

先述の通り、地元の名士たちが栗田菊次郎を後援したことで、菊次郎が作った器に絵付けをするための絵師として、森村冝稲や伊勢門水といった地元の画家が呼ばれているのです。それぞれ画風は異なりますが、焼き物によくなじむ絵付けをしております。

後に嘉楽焼は即興で焼き物を作ることが可能な「楽焼」へとシフトしていくのですが、これも「その場で絵付けをしてもらう」ということが可能で、しかも「すぐに焼きあがった作品が見られる」といった、名士たちの要望に応えた結果だと思われます。

あちこちへ招かれて焼き物づくりを披露

さらに後の時代になると、八幡楼(若宮八幡社の裏手にあった料亭=「八幡焼」)や、常盤館(蒲郡の料理旅館、現在の蒲郡クラシックホテル)などに出向いて、楽焼を製作しています。出張先では嘉楽焼とは別の印を使用し、「八幡」「常盤」といった印を用いています。

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