尾張国焼鉄道の旅06:上前津(豊楽)
「この電車は、栄方面、大曽根行きです。次は、上前津。」
金山から右回り(時計回り)に名城線を回っていきましょうか。
金山もそこそこ濃い場所でしたが、かつて「前津小林村」をアートフェアでやっただけあって、この駅はもっと濃いです(笑)
濃密すぎる前津の国焼探訪を始める前に…前津小林村について、ブログでも勉強してみましょう。
一応、タイトルには「豊楽」と銘打ってますが…
豊楽についての説明は、特集「豊楽焼」を見ていただければ…。(´・∀・)
前津小林村って?
今でこそオタク、コスプレイヤー、爺ちゃん、婆ちゃん、JC、JK、中国人にブラジル人やフィリピン人も…などなど…多種多様な人々が闊歩するカオスな商店街・大須としてにぎわう場所ですが…。
現在の大須商店街は、そのほとんどが元寺社の境内だったのです。(外から見ても分からないでしょうが、近代的な建物(万松寺ビル)の中に「参道」があるのですよ?)
万松寺だけなく、ほかにも寺院がたくさんあり(現在では場所を他に移している寺院もあります)、この辺りはもともとは名古屋の南側の「寺町」でした。
名古屋城から見て、南側。宮(熱田神宮)と城下町の間に位置するこの場所は、計画都市・尾張名古屋における、有事の際の防衛拠点として整備された場所だと考えられます。この一帯で一番大きな万松寺も、もとは清州から名古屋に移ってきたお寺です。万松寺だけでなく、ほかにもいくつかお寺はあるのですが、戦火で燃えたり、別の場所に移ったりしているので、往時の姿をうかがい知れる場所は少ないです。
香久連里
万松寺の南側にあったのが「香久連里(かくれざと)」という場所で、ここに豊楽焼の豊介が住み、窯もここにあったと言われています。
※詳しくは「郷土の焼き物-豊楽焼・二代豊八」でご紹介。
風光明媚な景勝地
街外れの「防衛拠点」としての機能を持たせるために寺を集めた地域ですが、その東側には開けた芦原が広がり、さらに遠く東方に山々が見える眺望の良さがあり、ここは次第に「不二見原」と呼ばれるようになったと言われます。
そして東に見えた山々を前津の人々は「富士」としたのですが…実際に見えていたのは猿投山や木曾駒ケ岳、あるいは南アルプスだったと考えられます。(まあ、気持ちとして「富士が見えた!」という方が、楽しいでしょうが…)
かの有名な葛飾北斎による「富嶽三十六景」のなかに、「尾州不二見原」があり、これがこの場所だったとされます。桶屋の作る丸い桶の枠を通して見える富士という構図は、三十六景の中でも傑作といわれる一つです。(数年前にユニクロで発売された、北斎BULUシリーズの不二見原Tシャツ、地元民として思わず買っちゃいましたよ…笑)
景が人を集める
それだけよい景色の場所、というのは人が集まります。
庶民の憩いの場所としても栄えたようで、田畑の灌漑用水を貯めておく池として作られた「大池」の周りでは、凧揚げや花火などを楽しむ人たちでにぎわったと言われており、その様子が「尾張名所図会」にも記されています。
江戸期より下屋敷、別荘などが建てられていましたが、中でも俳句を好んだ横井也有、久村暁台がこの地に居を構え、風雅を楽しんだ場所としてしられます。
江戸中期以降、尾張周辺では「俳諧」が流行りました。
その流れを受け、前津周辺には「句会」を行えるような貸座敷や料亭が発展していきます。また名士が大きな庭園を設け、そこに茶室を設え、風雅を楽しんだ場所がいくつもありました。宮(熱田神宮)から名古屋城へ向かう途中にあるため、ここに立ち寄る文化人もいたことでしょう。
前津小林村は尾張における文化の交差点ともいえる場所だったのです。