郷土の焼き物-豊楽焼・二代豊八

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前回からはじまりました、「郷土の焼き物」豊楽編。歴代を順にご紹介していきます。

※2018/10/31 一部加筆修正

二代・豊八

二代・豊八の生年はわかっていませんが、享和8年(1801)になくなっていることが、「一楽會誌二」によってわかっています。

初代・利慶との関係も詳らかにはなっていませんが、利慶の墓碑がある盛屋寺・加藤家の墓所に「豊八」という人物の墓があることから、恐らく同族であったと考えらています。

また後述しますが、豊八以降の作品の共箱には「隠里」「香久連里」の表記があり、初代・利慶の住まいがあった「カクレサト(隠里)」に窯を移していることからも、やはり二人は同族であったと考えてよいでしょうね。

かなり評判になっていた「素焼師・豊八」

二代・豊八の名はさまざなま文献に登場しており、断片的にその様子を伺い知ることができます。

近きころより愛知郡前津村の内に小窰を開き 土器を製する者あり 名を豊八と号す 彼れも又瀬戸村藤四郎末葉也

内藤東甫 著 「張州雑志」 (1789年編)

前津富士見 素焼之藤

もとは 素焼師の豊八といふ者 美濃国の産なりしが 爰(ここ)に来住して茶碗其外いろいろの土細工をなす 甚工(たく)みなりし 但し瀬戸の如き薬はかけず それゆへに素焼の名を得たり 其庭に植たりし藤次第次第にうつくしく咲て いつとなく諸人の遊観する所となれり其後 土細工を門弟にゆづりしよし 近年にいたりて 今は端出なる茶店の如き宴会の席となれりしより 藤も一しほ色気ある美しいやつも出かけ侍りぬ

高力猿猩庵 著 「尾張年中行事絵抄」(1818-1844年頃成立)

豊八の出自について、2つの文献で異なっているため、果たして「瀬戸」なのか「美濃」なのかは分かりません。

「張州雑志」によれば、少なくとも寛文元年(1789)より以前から、豊八は作陶を行っていたようです。また前回の初代・利慶で紹介した「青楽名刺」の彫銘には「寛政六寅(1794)」とあり、初代と二代の2人は制作時期が重なっていると考えられます。

そして、豊八歿後に成立している「尾張年中行事絵抄」によれば、いつ頃からか窯を「前津・富士見原」に移しております。例によってGoogleMAPで示すと、このあたり。

ピンポイントで「高砂殿」が表示されていますが、あくまで「おおよその場所」でございます。東別院(東本願寺・名古屋別院)の北東に「富士見原」があり、これが古地図にも残っており、凡そこの辺りに素焼の藤の窯があったとされます。

藤棚の窯から「カクレサト」へ

「尾張年中行事絵抄」では、その窯場にあった「藤棚」が大変評判になり、人々が集まる場所となっていたことが伺えます。挿絵にも満開の藤を見ようと訪れた人たちで賑わう藤棚の様子が描かれています。

こうして評判になった藤棚に関連し、二代・豊八の号には「藤花園」という号もあります。この号の彫銘がある焼き物も現存し、まさしくココで制作された焼き物ではないかと思われます。

このように、窯があった藤棚の場所は人々が花見に訪れる名所となったためか、窯としての役割を別に移したのでしょう。初代・利慶が住んでいた、万松寺の南に位置する、「隠里」に窯を移します。(藤棚の地は人々の憩いの場として、茶店を出したほうが儲かった、ということでしょうね)

「初代・利慶の住居」「万松寺の南」と、文字だけの情報だとイメージしにくいでしょうから、さらにGoogleMAPでご紹介。

古地図で見ると、「カクレサト」と「万松寺」は隣接しておりますが、かつての万松寺の敷地と現在の敷地はすこし違います(昔のお寺って、大きな敷地持ってたんです)。と、いうわけで現在の万松寺から少し南に離れた位置だと推定。今じゃ立派なアーケードのある大須商店街の一角です。すぐ近所にはメイドカフェ…うーん、スゴイ場所になっちゃったなぁ。(゚Д゚;)

豊八の作品

豊八も残された作品は少ないですが、初代・利慶に通じる施釉の手焙や、表面に漆を塗って土風炉のように仕上げた煎茶で用いる涼炉の他、楽焼の茶碗、南蛮写の水指などが伝えられています。作品を見ても、やはり初代と同時期に制作していたように感じますし、初代と同様、茶道具の需要に応えるべく、様々な道具を制作していたのだろうと思います。中でも「素焼き」の名手として評判になっていたことは上述の通りです。

また、南蛮写の水指にはいくつか「蝸牛好」の彫銘があるものが知られ、後の三代・豊介もこの「蝸牛好」の彫銘がある水指を作っていることからも、この頃から尾張の茶人たちとの交流があったものと考えられます。

以前、商品紹介ページでもご紹介した水指がまさにその一例ですね。(こちらは三代・豊介のものですが)

「尾張年中行事絵抄」では「土細工を門弟にゆづりしよし」とあり、これが三代・豊助のことだと考えられます。三代からは「加藤」から「大喜」という苗字になっており、二代と三代は師弟関係であったことはこうしたことからも明らかになっています。

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コメント

2 件のコメント

  • 熱涛庵 酔好 より:

    いいですね!! ずーと続けてくださいね。
    楽しみにしてます。

    • MasterMK より:

      こんにちは。コメントありがとうございます。( ´∀`)
      長-く続けていけるよう、適度にサボってがんばります。(笑)

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