尾張国焼鉄道の旅05:金山(夜寒焼)

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もういっちょ、金山で尾張国焼探訪です。

前回の「東雲焼」で、かつての金山駅周辺はあまり人が普段の生活する地域ではなく、鍛冶職人が集まっていたということから、村のはずれで「火気が気軽に扱える場所だったのではないか?」という推測をしました。

同じような理由なのか…実は金山周辺にはもう一つ、焼き物の窯があったといわれています。

過去に商品紹介でも触れた、夜寒焼です。

金山駅の近くにあった…のか?

尾張国焼マニアのバイブル「国焼のしるべ(著:柴田釼造)」によりますと、目次の一覧には「夜寒焼」はありませんが、「酔雪焼」の項目の中に

子息・鉦次郎凌古堂と号し、後日、古澤町に夜寒焼を創始し、染付の茶碗・菓子器等を作りて名声あり

とあります。

この「古澤町」って、一体どこ?名古屋の地誌を紐解いていかなくてはなりません…。

旧地名の「中区古沢町」とは、1913年(大正2年)10月1日 に中区東古渡・伊勢山町の各一部により成立した町の名前です。それまでは「東古渡」という地域だったものが「東雲町」と「古沢町」に分けられたようなのです。

ここで前回の「東雲焼」の名前がでてきましたね。現在の大津通を挟んで西側(現在の金山1丁目の一部)が「東雲町」、東側(現在の金山2丁目の一部)が「古沢町」でした。

今昔マップで明治と現在の地図を見比べることができるので、このページは楽しいですよ。

古沢町周辺を見てみると、明治時代は田畑ばっかりですねー。

鉦二郎って誰?

嘉永元年生まれ。酔雪焼を創始した酔雪楼主人・辻宗衛(惣兵衛)の子。明治12年ごろ名古屋の夜寒の里に窯をひらいて茶器などをやき夜寒焼と称した。大正9年8月10日死去。73歳。尾張出身。号は凌古堂。

明治~大正の人ですね。お父さんの「辻惣兵衛」は酔雪楼の主人で、「酔雪焼」を焼いたことでも知られます。(これについては、また上前津周辺の時にご紹介します)

この人のことについて、昭和の初めに「国焼のしるべ」が書かれたことから、辻鉦次郎のことについて大きく間違えるとは考え難いんですよね。もっと古ーい江戸期の焼き物の話ならともかく、リアルタイムの伝聞(当時を知る人の話)を聞ける、リーチの届く時代感です。

夜寒の里ってどこだ?

ここで一つの疑問が浮上します。「夜寒の里って…どこ?」

単純に「○○焼=焼き物の産地の名前を冠している」とすれば、「夜寒の里に窯があったのではないか?」とイメージするのが本筋です。当ページにおける夜寒焼の商品ページでも、「夜寒の里で…」という記述をしています。これはとある辞典からそのまま引っ張ってきたのですが…。じゃあ厳密に「夜寒の里」がどこであるのか、これについて言及はしていません。

しっかり根掘り葉掘り調べてみましょう。

名古屋の古い地誌を知るなら、やはり「尾張名所図会」にお出ましいただくほかありません。ここにも「夜寒の里」の言及があります。

はたやの東のかた、高蔵宮の南の方なり、今は里なく、田畑のみにて

「はたや」とは、現在の熱田区旛屋、断夫山古墳のあるあたり。

「高蔵宮」とは、高座結御子神社のことでしょう。

その間に挟まれる辺りに「夜寒の里」と呼ばれる名所があったという伝承が残るとのこと。これは現在の「熱田区夜寒町」がちょうど重なる位置ですね。

…あれ?ここだと金山駅よりか、西高蔵駅じゃん・・・?

正体不明の「夜寒の里」

実は文献によって「夜寒の里」を指し示す地域が微妙に違っています。

春敲門(しゅんこうもん)の北、森の辺とか、本宮の森の北とか、各々の説未だ詳らかならず

これは尾張名所図会よりも古い資料、「張州雑志」に書かれた夜寒の里のことです。「春敲門」とは熱田神宮の東門であった門で戦災で焼けてしまって今はもうありません。東門…というのがなんかちょっと引っ掛かる感じがしますが…。

さらに古い「厚覧草」にはこう書かれています。

大宮の北、高蔵の南となん云いける、これも今は其の所を知る人なし

江戸時代、すでに「夜寒の里」がどこにあるのか、分からなくなっていたみたいです。

総括すると、おおよそ「神宮より北側、高蔵宮より南側」ということが伝わってきた様子が感じられますね。これらの情報を統合すると、「はたやの東、高蔵宮の南、熱田神宮よりも北側」ということで、現在の熱田区夜寒町がかつての夜寒の里があったと推定される場所になります。

現在の町の名前は、昭和になってこの古い名所の名前を取って「夜寒町」と名付けられたものです。

つまり…明治初期ごろまではフワッとした「夜寒の里という雅な名前の名所が、宮の北側に昔あったらしい」という情報があり、恐らくこれを基に辻鉦次郎は「夜寒焼」の名前を付けたと考えられます。(当時の感覚では、熱田の北側というザックリとしたイメージでの夜寒の里、という認識だった、もしくは「夜寒」という雅な名前を使っただけで、場所に対する厳密なこだわりがあったわけではない可能性が高い)

夜寒焼は何を作っていたか

いずれにせよ、「夜寒焼の窯は古沢町にあった」とする、もっとも近しい情報である「国焼のしるべ」の記述を基礎にする他ありません。とすると、西高蔵駅より、金山駅で紹介することになるわけです。

「国焼のしるべ」によると、当初は染付磁器の茶器を製作していたようで、明治29年に同所に「辻陶器工場」を設立し、事業はさらに大きくなって様々な焼き物を生産していたようです。磁器だけでなく、本焼系統の黒釉、鉄釉の器や乾山写の呉須と錆絵のある茶道具などを盛んに制作していたと考えられます。

大正9年に辻鉦次郎がなくなると、まもなく夜寒焼も廃絶してしまいます。時代としては近代で、しかも工場生産まで行っていた窯ですので、比較的数はまだ残されている方ですが、どちらかというと初期の染付製品に優れたものがあります。

当ページでの商品紹介でも、染付の夜寒焼をご紹介していますので、そちらも併せてごらんください。

 

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