尾張国焼鉄道の旅04:金山(東雲焼)

地下鉄に乗って旅をしながら、名古屋の焼き物を勉強しております。

……この 字面だけみると、意味不明も甚だしいですね(笑)

ともかく…名古屋の焼き物とゆかりのある「地下鉄の駅」をめぐる旅ですが…

東山線の次は名城線に乗り換えます。

名古屋初の「環状地下鉄」×尾張国焼

例によって、まずは地下鉄のおさらい。

名古屋で最初に出来た地下鉄・東山線の次に作られたのが名城線です。正式名称は名古屋市高速度鉄道第2号線

東西をつなぐ1号線(のちの東山線)に対し、南北を結ぶ2号線は当初「南北線」などと呼ぶことがあったみたいです…昭和44年(1969)より「名城線」の愛称が正式に決定。当初は名古屋港~大曾根を結ぶ一本の鉄道でしたが、昭和49年(1974)に「4号線(新瑞橋 – 金山)」が 開業。「逆さY字」というか、「人」という字のような、ちょっと変わった路線になりました。

昭和61年生まれの僕は子供のころから「なんでこんな変な形なんだろう」と不思議に思っていましたね。

そして2000年代から延伸工事が進み、ついに大曾根~新瑞橋までが一本の線としてつながり、環状線から分岐する「金山~名古屋港」は「名港線」に改称されますが、現在も名城線の一部、ということになっています。

「国内初の地下鉄環状線運転!」

山手線や大阪環状線があるのに…国内初…?どうやら「すべて地下を走る環状運転」というのが国内初、ということだったようです…。でも、調べてみたら東京メトロ・大江戸線の方が開業してるじゃん…?と思ったら、大江戸線は厳密には「環状ではない」のですねー。

このネーミング感覚は名古屋ならではッスねー(アレコレ湾曲させても国内初を名乗りたい気質)。

名城線は市役所、熱田神宮、瑞穂運動場、名古屋大学、ナゴヤドームといった主要な公共施設へアプローチでき、名古屋の中心部・栄で東山線とクロスし、大動脈の東山線と並んで、名古屋市民の生活を支える両輪といえる存在です。

名古屋のターミナル駅・金山

名鉄の名古屋本線、JR東海の中央本線と東海道本線、そしてこの名城線・名港線が通る金山駅は、名古屋駅に次ぐ市内屈指のターミナル駅。鉄道の発展によって大きく姿を変えた町といってもいいでしょう。

金山ゴールド→派手好き名古屋っぽい!

というのは、まったく関係ありません(苦笑)

ここでかつて「金」が産出したという記録はありません。

この金山の名前の由来となったのは、この地にある金山神社が元となっています。

全国各地に金属の神様「金山彦命」を祀った社がいくつかありますが、この金山神社もその一つ。この場所は熱田神宮の北側に位置し、熱田宮の修理を担当する鍛冶職が住んで、ここに金山彦命を勧進したのが始まりだと伝えられます。「尾張鍛冶発祥の地」とされ、周辺には古くから鍛冶職人が集まり、室町時代後期から江戸時代初期にかけては「金山鍔」と呼ばれる鍔の一大生産地だったようです。

が、金山と地名が付いたのは昭和になってからの話。

現在の金山1丁目~伊勢山1丁目あたりまで、かつては「東雲」と呼ばれていたようです。現在の金山駅より北側、東別院よりも南側。確証はありませんが、人があんまり住んでいない、いわゆる村はずれだったと考えられます。

鍛冶職人が集まる地域、村はずれ…やはり条件は整っていたと見てよいでしょう。

街中に比べ、ここは火気を気軽に扱える場所だったのではないか…。

東雲焼

珍しく、ウィキペディアに記事があります。実にあっさりと、簡潔にまとめてあります。

大幅に補足説明が必要ですね。

東雲焼の窯は明治期に元尾張藩士の木全年輝によって開かれ、それが横井米禽、大島楽庵へと譲られて続いた窯です。

これが「日本特殊陶業市民会館(名古屋市民会館)」の付近であったと言われています。

「火気が気軽に扱える土地」があったから、焼き物を始めたのか?

それとも焼き物を始めるために、「火気が気軽に扱える土地」に目を付けたのか?

そこまでは判然とはしませんが…ともかく、この金山駅の北側に窯があったそうです。現在の金山からは想像もつきませんね。

東雲焼だけではなく、名古屋の焼き物を紹介するとよく出てくるのは「明治になってからできた」という窯が結構あります。明治維新後、職を失って働くことを余儀なくされた武士の中に、何人も陶芸を始める人たちが出てくるんですね。

そのうちの一人、元尾張藩士・木全年輝によって始まった東雲焼。

明治時代の窯業は職人一人でやるものではなく、分業制による大量生産の時代です。茶器の他にも日用雑器を作り、中区の末広町に販売店を設け、売りだしていたようです。

100年後の現在、その末広町付近に「東雲焼を含む地元の焼き物」を扱う当店があるのは、何かの縁でしょうか…。

米禽焼

大正11年に木全年輝が没した後、美術商の横井兼吉が東雲焼の窯と、そこに従事していた職人を丸ごと買い取ります。

横井兼吉は「米金堂」という屋号の道具屋さんでしたので、自身は「米禽」と号し、こちらの名前の方が名古屋ではよく聞く名前でしょう。もともと道具屋として鍛えられた審美眼、瀬戸・美濃を訪れて研究を重ねた陶芸の知識、これら生かしてお茶に適った優れた焼き物を生産し、個展もたびたびおこなっていたようです。

数種類の「米禽」の印銘が知られますが、恐らく職人丸抱えで窯ごと買い取ったので、旧来の「しののめ」印も使って初期は生産が続いていたのではないか…と思っています。染付、絵瀬戸風、安南風、焼締陶、この時代になると技術は確立されているので何でも焼きます。中でも「伊賀写」が有名で、現在でも「米禽といえば、伊賀写」と評価が高いです。

大島楽庵

昭和16年に米禽が没すると、そのあとを大島保次郎が譲り受けて、引き続き焼き物を作ります。号を「楽庵」と名乗り、米禽と同じく美術商であり、米禽の伊賀写花入に傾倒し、自分でも作陶をしたといわれます。

しかし第2次世界大戦の戦火で自宅、窯を失い、戦後は各地の窯に窯入れを頼んで、作陶を続けました。

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