尾張国焼鉄道の旅10:矢場町(八幡焼)
さあ、今回はついに!前田壽仙堂の最寄り駅、地下鉄名城線「矢場町」駅でございます!!
修正履歴
※2020/9/1 一部加筆修正
尾張国焼を巡る旅なのですが…地元ゆえに愛が溢れて、なんだか焼き物のことは「ついで」になりつつある、昨今。
さすがにね…ちょっと今回はやり過ぎる予感がしましたので。
『地元の中の地元』である矢場町については、日々色々カテゴリでじっくりと…。
※読み返してみると…随所にDisが入り乱れ、本当に「愛が溢れている」のか、甚だ疑問ですが…
名古屋総鎮守・若宮八幡社
矢場町散歩でも触れた、名古屋の守り神である若宮八幡社。
ここは元々、江戸時代は名古屋の城下町の目抜き通り・メインストリートであった「本町通」に面しており、人々の往来が多かった場所です。
人通りが多い=商機がある
こういう捉え方はややゲスいですが、インターネットもない時代では、今以上に重要なファクターだったはずです。
八幡焼
時は移って、明治時代。矢場町周辺も次第に開発が進み、寺社領が縮小し、跡地に様々な建物が建ち、商業活動が活発になります。
この若宮八幡社の北側に料亭「八幡楼(やわたろう)」ができ、ここで栗田菊次郎が作った焼き物(八幡楼の御庭焼)があるのです。
その名も若宮八幡焼…と呼ばれる焼き物です。
この名前だと、「若宮八幡社の境内の中に窯があった」という誤解を招きそうな気がするのですが…まあ、しょうがない。
(「八幡焼」では、各地に同様の名前の窯が多数あるので…便宜上こう呼びます。)
その名も八幡焼(やわたやき)…と呼ばれる焼き物です。
栗田菊次郎
慶応2年(1866)生まれ。明治後期~昭和初期の陶工です。
幼少期から瀬戸の加藤五助、川本半助に陶技を学び、井上延年のもとで16年間修業。その後は国定廉平を手伝ったり、松村製陶所に従事したのち、明治27年(1894)に前津小林村に窯を築いて、独立(嘉楽焼)。赤絵、染付などの瀬戸系の焼き物を作ったが、明治40年ごろより楽焼も作るようになります。
大規模な窯による高火度焼成が必要な本焼や磁器と違い、楽焼は窯を即席で作ることができます。しかもその場で絵付けをして、焼成も短時間で出来上がります。阪本釤之助(さんのすけ)や鈴木惣兵衛が後援者だった菊次郎は、地元の名士たちの会合に招かれ、その場で焼き物を作ったと言われています。その即席の窯で画筆をとったのも地元の画家、森村冝稲、伊勢門水たちでした。
この八幡焼も、この即興楽焼の一種でしょう。「八幡」の丸印が捺された楽焼で、冝稲の画が描かれた茶碗です。メチャクチャ古いものではないのですが、数はあまり見かけないような気がします。
菊次郎はこの他にも同様な焼き物(常盤焼)を製作しており、同じように尾張の画家(冝稲、門水の他にも数人)が絵付けをしたものがあり、恐らくこの結びつきは当時の有力名士が結んだ縁だと思われます。
どどどーっと人名が出てきましたが…簡単に解説すると、加藤五助、川本半助、井上延年は同時代の瀬戸の陶工。阪本釤之助は明治後期-大正期の名古屋市長。鈴木惣兵衛は過去の勉強部屋でもでてきました、材木商・材惣の主人であり前津・龍門の主。森村冝稲、伊勢門水は同時代の画家。しかも門水は末広町出身の超ご近所さんです。
夜寒焼、不二見焼といった明治以降の名古屋の焼き物とはちょっと性格を異にしており、菊次郎の作った焼き物(嘉楽焼、八幡焼、常盤焼)は産業的な側面はあまり見受けられず、どっちかというと趣味性に振り切っているような感じです。絵付けのある茶碗を当時の名古屋の人たちが好んでいたのでしょう。
それに、目の前で轆轤を引いて、絵付けをし、焼き上げるという「ショービジネス」的な要素を内包してたのかもしれませんね。
「出来上がった焼き物を鑑賞するのもいいけれど、作る過程も見てみたい!」
…そういえば、江戸時代の尾張の殿様もそんな感じだったような(笑)
いつの時代も、変わりませんね~。
八幡焼は「やわたやき」と言って八幡楼のお庭焼きだよ。八幡楼の子孫が僕に直接そう言ったから間違いないです。池下駅から北へ行ったところで「紅」(こう)という炉端焼きの店をやってる。矢場町にもあったけど、そちらはどうなったかわからないけど。しばらく行ってないなあ。
だから「若宮八幡焼」は削除してくださいね。