尾張国焼鉄道の旅13:浅間町(萩山焼)

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名城線から鶴舞線に乗り換えます。

東山線名城線と乗り継いできた尾張国焼鉄道の旅、いよいよ鶴舞線に突入です。

この旅は単純に「焼き物の時代変遷」で辿るわけではなく…路線に沿って駅をまわる都合上で、江戸時代や明治時代を行ったり来たりします。もちろん時代の変遷を感じるのも大事ですが…こういう切り口も面白いかと。

名古屋市内に限定すると、どうしても明治大正が多いのですが、今回はまた江戸時代に飛びますよ~。

遠方までつながる鶴舞線

軽く、鶴舞線についてのご紹介。名古屋市営地下鉄のなかで、唯一「私鉄(名古屋鉄道)との相互直通運転」をしている地下鉄路線です。(厳密にいうと、日本最短の地下鉄路線・上飯田線も相互直通運転ですが、あれはちょっとイレギュラーな存在です)

北は名古屋鉄道・犬山線と接続、東は名古屋鉄道・豊田線に接続し、名古屋市外までダイレクトでつながっています。名城線が環状運転を開始するまでは、八事方面に行く唯一の鉄道路線でして、僕の勝手なイメージでは「学生さんがよく乗ってるいる路線」ですかね。

東山線・名城線が名古屋における生活・経済を支える両輪だとすれば、鶴舞線は安定感をもたらしてくれる補助輪みたいな立ち位置でしょうか。だた、人によっては一番使う路線でしょう。(実際、僕は中学~高校までは最もよく乗る地下鉄路線でした)

そんな鶴舞線で巡る、尾張国焼鉄道の旅は「浅間町」から始まります。

「せんげんちょう」と読みます。

「あさままち」とも読めちゃうんですけど…まだわかりやすい方ですかね?

名古屋も何気に難読地名がちょこちょこある街なのです…。(主税町、橦木町、味鋺、四間道、泥江町、栄生、志段味、猪高台、一社、上社etc…全部読めますか?)

僕は学生時代~修行中を含め、約10年名古屋に住んでいなかったせいで、実は未だに即答で読めなかったり、度忘れします。(汗)

けれど、浅間町は読めます。この辺りは僕の母校の近くであり、毎日のようにチャリで通いなれた場所なので、馴染みがありますから。

…というのはウ・ソ。(‘A`)

10年経って、この辺りって景色が一変してしまいましたね!

僕が名古屋を離れている間に開通した「名古屋都市高速・清州線」の存在感たるや……。いやぁ…ここも、僕の知らない街の景色に変わっちゃって…。矢場町散歩でもチクっと苦言を呈しましたが、ぶっちゃけ僕はこの名古屋都市高速の存在感が、あまり好きではありません。なんていうかね、日の光をさえぎって町が暗くなるし、圧迫感があるというか、何か街が分断されてるような、いやーな感覚があるのです。

いかん…Disり出すと長くなる。閑話休題。

江戸後期に作られた新御殿

名古屋城の西に位置する浅間町。今回の目的地は名古屋城に関係のある「新御殿」です。

さて令和の時代、どうしても「新御殿」っていうとね…再建された本丸御殿がイメージされるでしょうが…。んー、まあ間違ってないですよ?あれは確かに「新」御殿です。新築の御殿といってもいいでしょうか。Google先生もね、「名古屋城 新御殿」をそう認識してらっしゃるようですし…。

ただ、僕が言ってるのはそこじゃーない。(‘A`)

名古屋城の「新御殿」といえば…文政10年(1827)、十代藩主・徳川斉朝が隠居するにあたって、名古屋城の御深井丸の堀の向こう側、下御深井御庭の西側に作らせた御殿のことです。

現在の地図で言うと、このあたり…。

なんか地図上で見ると名城公園の方が最寄駅っぽく見えますが…まあいいや。(´-ω-`)

新御殿のお隣は御深井御庭

この新御殿は西側が下御深井御庭に面しており、斉朝はこの新御殿を作るにあたって、下御深井御庭にも手を加えたと伝わります。徳川林政史研究所の所蔵になる「源順様御代下御庭図」は、この斉朝の時代に改造された下御深井御庭の様子を伝えています。

さすがに江戸時代の古地図となると…一般公開をしているところは少なく…。もちろんこの絵図もネットでは簡単に見ることはできません。かといって、頒布物を無断でアップロードするのは多大な迷惑をかけてしまうので、さすがに無理

なので、当店に遊びに来られた際、各種図録をお見せすることは可能です。

下御深井御庭のかつての姿

では、グーグルマップに助けてもらいながら、果たしてどこまで伝えられるか…やれるだけやってみましょう。

上でもご紹介した通り、新御殿は大体この辺りにありました。

本丸御殿と違い、新御殿は名古屋城の御濠の外です。

南側に御深井御濠、その先に御深井丸と天守閣が見え、東側には下御深井御庭が広がります。

現在、下御深井御庭だった一部は名城公園となっており、南西側に池があります。かつての下御深井御庭にあった池は「御蓮池(ごれんち)」と呼ばれる広大な池がありました。イメージとしてはこんな感じ。

※あくまでも、絵図を基に想像したイメージです。結構、いい加減です。

かつて「御深井焼」の回でも解説しましたが、この池は天然モノではなく、人の手によって作られた人工池です。今の名城公園からは想像できないレベルでデカかったんですねー!さらにいくつかの小島があります。現在の名城公園の池にも、かつての光景をイメージして作られたちっちゃな島がありますが…数が違い過ぎる。

「源順様御代下御庭図」には、このいくつかある池の中の小島の内、新御殿寄りの西側の一つの島に「萩島」という名前がついており、その中に小さく「かま」という記述があるのです。

位置関係を見ても、「新御殿」寄りの場所ですよね。

割とつい最近(平成ごろ)まで「萩山焼」は「尾張藩12代藩主・斉荘の時代に作られた尾張藩の御庭焼」と伝えられてきました。(古めの辞典などでは、そういう説明になっているものがあるはずです)。しかしこの絵図の記載が発見されたことで、10代斉朝の時代、この萩島に築かれた小規模の窯で焼かれた焼き物が「萩山焼」だと改められました。

萩山焼

お待たせしました。萩山焼です。

「御深井焼」「笹島焼」などでもチョイチョイかじっていた焼き物。どんな焼き物なのか?

上記の通り、10代斉朝によって御深井御庭が改造された際、新たに築かれた窯だったと考えられております。隠居後の斉朝は、お茶を楽しんでいたと考えられ、お茶で使う器を作らせるため、この窯を築いたのでしょう。「尾張藩の御庭焼」といってもいいでしょう。

伝世の作品は数が少ないですが、主に低火度焼成の軟質陶器が大半で、分かりやすく言えば「楽焼」の一種です。茶碗、香合、水指など、作られた器種を見ても、やはり「茶道具」がメインです。

もともと、下御深井御庭では御深井焼が焼かれていました。衰微したのちに復興したのも、このころだったと考えられております。そして御深井焼で作られていたのは、高火度焼成の陶器、いわゆる本焼と呼ばれる焼き物です。穴窯(大窯)、もしくは登り窯を用いて大量のマキを燃やし、高温の炎で一昼夜を通して焼き上げるため、ちょっと時間がかかります。

それに対して楽焼は時間がかかりません。趣味でやるにはこっちがお手軽です。また本焼にはない柔らかな風情は楽焼ならではのモノがあり、特に茶碗は喜ばれます。斉朝は御深井焼ではできない良さを備えた、お茶に適った焼き物を嗜好したのでしょう。

瀬戸・赤津村の御竃屋たちでは、この楽焼の技術に乏しいかったのか(恐らくそういうことだと思うのですが…)、この萩山焼を始めるにあたって、すでに町方で発展していた笹島焼の牧朴斎を招いたと伝えられます。笹島焼を勉強したうえで、萩山焼の白楽の作品を見ると、技術的な共通点(白い発色をするベースの上に絵付けを施している点)が見えてきます。

また、当店の商品紹介ページでご紹介している「萩山焼飴釉茶碗」には「萩山焼」の印ともう一つ「祖母懐」の印が捺されています。

この「祖母懐」印は御深井焼にも見られる印であり、萩山焼と御深井焼がほぼ同じ時期に稼働していた(少なくとも、この2つの印章は同時期に存在している)ことを示唆しています。

「祖母懐」印は「尾張家秘蔵の祖母懐土を用いた焼き物に捺されている」という言説を信じれば、この茶碗は楽焼なれど、土に祖母懐土を混ぜて作っているものと考えられるのです。

尾張国焼鉄道の旅《補遺》鶴舞(七本松金吾)

また、この萩山焼が廃窯したのちに、尾張藩士・萩山(伊藤?)金吾が願い出て、御器所村七本松に焼き物の窯を作り、そこで「萩山焼」の印を捺した作品を作ったと言われています。俗に「七本松萩山焼」として、尾張藩の萩山焼とは区別される焼き物です。印影が萩島の楽焼とは異なり、これはこれで珍しいものですが…やはり尾張家の御庭焼に比べると…格が数段下がるものになります。

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