尾張国焼鉄道の旅12:大曾根(渡辺又日庵)

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( ´・ω・)ん?

「なんか、色々すっ飛ばしてないか」って…?もう、いいでしょアレは…。

尾張国焼鉄道の旅で、本来なら立ち寄るはずの名城線「市役所」では、御深井焼を探訪するべきなのですが…。

ちょっと前に散々やりましたからねー(苦笑)

というわけで、すっ飛ばして…次の降車駅は「大曾根」です。

以前、「矢場町散歩」で「昔の矢場町は現在地よりも南側だった」というお話をしたように…この大曾根も、現代に至るまでに中心地と呼ばれる地域が少し東へ移動している地域でもあります。

日本の街づくりはどうしても「鉄道駅」を中心に考えがちですので、「現代の大曾根」というとJR中央本線・名鉄瀬戸線・地下鉄名城線が通るターミナルである大曽根駅が思い浮かびます。

が、この場所は言わずもがな「近代になって整備された鉄道駅」です。

元々の大曾根の中心といえば、名古屋城下町と各地(瀬戸・中山道)をつなぐ街道の分かれ道であった、現在の「大曾根交差点」が名古屋の玄関口だったみたいですよ。(今回はあまり深堀りしません…悪しからず)

大曾根と言えば

個人的に「大曾根」といえば、名城線が環状運転を開始するまでは「ナゴヤドームの最寄駅」というイメージでした(現在ではさらに近い、ナゴヤドーム前矢田ですが)。

広く一般的には…大曾根にどういうイメージがあるのか…正直、分からない(汗)

名古屋を代表する美術館である、徳川美術館の最寄り駅でもあるのは確かなのですが…。個人的には基幹バス「徳川園新出来」が徳川美術館に行くときに使うことが大半ですので…あんまり「大曾根=徳川美術館」のイメージはないんですよね~。

地図で見ていただいても分かるように、鉄道の大曽根駅からだと、そこそこ歩きます。(;^ω^)

ただこの辺りも「大曾根」と呼ばれた地域です。

現在の徳川園はもともと「大曾根御屋敷」と呼ばれた場所なのですから。

大曾根御屋敷

大曾根御屋敷の始まりは、尾張藩・2代藩主の徳川光友の時代に遡ります。

元禄6年(1693)に家督を嫡男・綱義(綱誠)に譲って、この大曽根別邸を建造し隠居所としたのが始まりです。

光友の歿後、この屋敷の一部が尾張藩の重臣たち(成瀬家、石河家、渡辺家)に下賜され、それぞれの下屋敷として使われることになります。

渡辺家

尾張藩寺部領主渡辺家は、嵯峨源氏の出で徳川家譜代の家臣です。渡辺守綱は幼いころから徳川家康に従い、各所で戦功を立て、大坂夏の陣では後の尾張家を継ぐことになる徳川義直を補佐します。慶長13年(1608年)、家康の命によって九男・義直が尾張藩主に封ぜられると、その付家老に転じ、武蔵の4,000石に加えて尾張国岩作(愛知県長久手市岩作)で尾張藩より5,000石、三河寺部(豊田市寺部町)で幕府より5,000石を与えられ、併せて1万4,000石を領して寺部城を居城としました。

渡辺又日庵

渡辺規綱はこの渡辺家の10代目。もともとは奥殿松平家四代の松平乗友の二男として江戸で生まれ(寛政4年・1792生まれ)たが、3歳の時に渡辺家の養子となり、文化元年(1804)に家督を相続しています。こののちに乗友に五男、規綱の弟として栄五郎(のちの玄々斎)が生まれています。規綱も栄五郎の養育に関わり、学問や茶の湯の手ほどきをしたと伝えられます。規綱が裏千家10代の認得斎の門人であり、また生家である奥殿松平家が認得斎と交友があったことから、この時点で将来の養子候補生として英才教育が施されていたのかもしれません。

規綱は文化14年(1817)に尾張藩の家老職につきますが、翌々年の文化2年には職を辞して家督を長子・寧綱に譲っています。

この時、規綱26歳……はあぁ?!26歳で隠居…?マジカヨ (゚Д゚)

まあ、当時の事ですからね。いろいろと「ワケあり」だったのはお察しします。いいこととも、悪いこととも、いろいろ勘ぐれるわけですが…それはまあ今回は置いておいて…。にしてもいいなあ…この年で隠居暮らしかよ…。(※「隠居」=「遊び放題」ってのは大いに誤解がありますが…)

隠居後は本邸から引っ越して、別の場所に住むわけですが…この時代、渡辺家にはすでにいくつかの屋敷が名古屋にあり、そのうちの一つが光友没後に賜わった大曾根屋敷でした。

規綱は隠居後は「兵庫頭」と名乗り、天保6年(1825)には剃髪し、「兵庫入道」と名乗ります。この名前以外にも、多彩な雅号を使いまくっています。

中でも多いのが剃髪後に名乗ったと言われる、「又日庵」(※環境依存文字で表示ができないかもしれないですが、本来は「又日葊」)で、茶会などで用いられる道具の説明では渡辺規綱のことを「又日庵(ゆうじつあん)」と呼ぶことが大半です。このほか、「宗玄」「艸玄(斎)」「宗一」「宗圃」「一楽園」などの雅号を用いています。

元治元年(1864)、家督を継いでいた孫の綱倫が急死し、家督を継いだ幼い綱聡の後見人を勤めます。明治4年(1871年)1月18日死去、享年80。

手作り大好き又日庵

すごい若さで隠居したとはいえ、尾張藩重臣たる渡辺家の御隠居として、遊んでばかりもいられず、それなりに立場と責任が伴うポジションだったはずです…。

ただ80歳まで生きた長寿の人だったこともあり、手造の作品が比較的多く残されている人でもあります。(やっぱ遊びまくってたんじゃ…?疑惑が深まる)

茶人の手造といえば、まず茶杓・花入といった「竹製」の茶道具が比較的とっつきやすい道具です。この傾向に漏れず又日庵も茶杓、花生をいくつか作っており、それが現代にも伝えられています。が…それだけにとどまらず、又日庵は自邸に窯を築いて、茶碗を作っています。さすが、尾張藩の重臣です。財力パネェ。

それが「大曾根屋敷」の芝山荘に築いた楽焼の窯です。

この窯は隠居後、京都より楽吉左衛門(了入・1756-1834)、常滑より上村白鴎(1743-1832)を招いて始めたといわれています。別号である「宗玄」を取って、「宗玄焼」とも呼ばれます。

「艸玄」「大」「陶二」「楽」などいくつかの印銘が知られています。大半が「黒楽」ですが、ごくわずかに赤楽の作品もあります。

ノンコウの再来・了入当時の常滑随一の陶工・白鷗という、両巨頭を招いているだけあって、さすがに茶味のある作品が多く、この宗玄焼の中でも「うまいなぁ!」という作品は、恐らくこのどちらかが制作していると思われます。端正で艶のある黒楽はいかにも了入っぽく。可愛げのある細工系の香合は白鷗らしさが迸っています。

……手造り、とは一体…何なのか…?( ^ω^)

でも妙に味のある作品は又日庵のガチンコ手造と思われ、これはこれで微笑ましさを感じます。すっごい重い(笑)

又日庵はちょっと変わった箱書の仕方をしていることでも知られ、箱の底部に銘などを書いていることがあります。

残され伝えられてきた道具を見ると、やはりこの人も「相当、楽しんでたな?」というのが伝わってきますね。

先述したように、「了入」と「上村白鴎」についても知見を広げてから、この宗玄焼を見ると、より一層深く楽しめる焼き物と言えます。

鶴舞線に乗り換え

「金山」→「上前津」→「矢場町」→「久屋大通」→「大曾根」とめぐってきましたが、これで名城線はいったん終了です。

いくつかすっ飛ばしている駅も、そのうち「補遺」としてアップするかも、しれません(未定)

そして次回からは名古屋市営地下鉄、第三の路線・鶴舞線に乗り換えます。

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