尾張国焼鉄道の旅08:上前津(龍門焼)

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尾張国焼のディープスポット・前津は巡る場所が多いです。まだまだ続きます。

景観が素晴らしく、多くの人たちに愛された前津小林村。

さまざまな文化人の手を渡ってきた建物もあり、今回はそれにまつわる焼き物。

前津随一の庭園・龍門園

いまや見る影もありませんが、酔雪楼の北側に、龍門園という立派な庭園がありました。

「前津旧事誌」によると、龍門園はもともとは野崎氏の所有だったものを、安永年間(1772-1781)に俳人として円熟期を迎えた久村暁台がここに草庵を営み、暮雨巷(ぼうこう)という名前を付けました。各地の俳人たちがここに遊びに来て、句会を行っていたと言われています。

暁台の没後はしばらく荒廃していましたが、文化の初め頃(1804~1809?)に水口屋・小川伝兵衛が所有し、以降は豪商たちの別荘として手を渡っていくことになり、材総の鈴木才造もこの地を所有し、別宅としていました。

どんな庭だったのか?

かつてあった場所は、現在は大津通が南北に貫通、大須通が東西に貫通、周りはビルが林立しております…。

いわば「地下鉄・上前津駅の直上、上前津交差点」が、かつて龍門園があった場所。

…今となっては、現場にもうその姿を知る手掛かりは何もありません。

※なお建物の暮雨巷はこの大津通り拡張の際に移築され、に現存します。

現地で分からんことは、本で調べよう。

ということで、面白い書籍を見つけました。

その名も「名園五十種」という本。近藤正一著、明治43年の刊行で、国立図書館デジタルコレクションでインターネット公開がされています。(画像が荒いので、ちょっと読みにくい…)

庭園ばかりを取り上げた、何ともマニアックな内容。目次を見ると、錚々たる当時の数寄者たちがずらーり。この中に「前津・龍門」も取り上げられており、その様子を伝えています。

名古屋で有名なものは天主閣上の黄金鯱と龍門の庭である。さすがに茶事に於いては日本随一と称せられる地だけあって、この庭も全体の趣が徹頭徹尾茶味を帯びて、植添えの下草や見切の袖垣までに、いうに言われぬ趣味が溢れている。さりとて普通の茶家の露地のように小迫ついてはいない、蒼龍の天に朝する(ちょうする=達する)ような古松も、合抱に余る(=かかえきれない、数えきれきれない)桧や樅などがあって、何処となく物古りておおらかな様に富んでいるところは、名古屋はもちろん他にも多く比儔を見ぬ名園である。

何というか、この時代独特のガッシリ感のある言い回しって、面白いですよね。(笑)

(写真はフリー素材から引用した仮想イメージ)

江戸中期から引き継がれてきた龍門は、広大な敷地面積を誇った、まるで森のような場所だったみたいです。

江戸後期に町として発展していった前津にあって、ここの庭だけは時間が止まったのように、原風景を留め伝えていたのかもしれません。市中の山居というより、市中の山林、か。

激レアな龍門焼

そんな龍門園では、江戸後期に焼き物が作られていたといわれます。

龍門司焼ではないですよ、龍門焼。

この焼き物もあまりに未研究な分野ですので、恐らく「尾張国焼鉄道の旅」の中でも、最底辺の認知度かと思われます。ネットで探しても、詳しいことを書いているのはたぶんウチのページしか出てこないでしょう。

江戸後期~幕末の間、龍門園が鈴木才蔵の所有だったころ、陶工を招いてこの庭の一角(東端)に窯を築かせ、そこで楽焼系統の焼き物を作らせていたらしいのです。

「そんなの、見たことないよ?」

……でしょうね。僕も1点しか見たことありません。それぐらい超希少です。

パズルのピースをはめると見えてくる輪郭

分からないことがとにかく多い、謎多き焼き物、龍門焼。

しかし周辺情報をかき集めてくると、うっすらと輪郭が見えてきます。

まず時代が「江戸後期~幕末」という期間で、「陶工を招いている」ということから、この時代、この地域で「楽焼」を作っていた窯に注目します。

当サイトを隅々までご覧いただいている方はお判りでしょう。豊楽焼ですよね。

そのころの豊楽焼がどうだったか…四代豊助、五代豊助が活躍したタイミング(六代豊助は生まれていますが幼少ですの除外)。そして忘れてならないのが、加藤慶助もこの時期の人。この人は後に独立して「慶楽」の印を押した作品を制作しています。

そして時代が少し下がって、次回の尾張国焼鉄道の旅でご紹介する「不二見焼」の話になってしまうのですが…。

不二見焼の創始者・村瀬美香は明治時代になってから、前津に隠居します。そこでかつて「慶助?」なる人物が築いて残されていた小規模の窯を用いて、趣味で楽焼の製作を行い、ここから不二見焼へと発展していくのですが…。

先ほど紹介した、「名園五十種」の龍門園の紹介の中に「かの不二見焼の創業を以って名高い村瀬氏(村瀬美香)なども一時はここに住んだことがあるそうだ」という記述があるのです。

「鈴木才蔵が隠居し始めたころ、すぐ近所には豊楽焼があった」

「村瀬美香は龍門に住んでいた時期がある」

「村瀬美香が楽焼を初めて試作したのが、かつて慶助が使っていた窯」

周辺情報をかき集め、部分ごとに繋げられそうな、これらのパズルを組み合わせると…

「龍門に招かれて焼き物を作っていたのは、慶助(=加藤慶助)だった?」

という感じで、時空を超えて、継ぎ接ぎの絵が見えてきます。

※研究が不十分過ぎる話ですので、確証はありません。

慶楽焼のプロトタイプ=龍門焼?

また慶楽焼の作品を見ると、非常に手の込んだ「木具写」の優品が多く残されており、これを製作するあたっては相当な「金銭的支援」があったことが窺え、「パトロンとなった人物がいたのではないか?」という推測は、以前の勉強部屋でもご紹介しましたね。

材総の鈴木才蔵なら、恐らくそれぐらいの金銭的支援は可能であろう、という筋も通ります。

直接的なつながりを示すものは皆無なのですが…

「鈴木才蔵は龍門に招いて焼き物を作らせた陶工(慶助)の技術を認め、さらなる支援をした結果、豊楽焼から独立、慶楽焼が始まった」

こんな感じのストーリーを僕は想像しています。

龍門焼は慶楽焼の前身、プロトタイプだったのかもしれません。ゆえに数は極少

…ちなみに英語に直すと「Dragon Gate Ware」…かっこぇぇ…中日ファンなら一つは持っておきたい一品ですね!(笑)

もし見つけたら教えてください。

認知度がなさ過ぎて、市場価格はゼロに近いかもしれませんが…ひじょーに、珍しいものです。

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