尾張国焼鉄道の旅03:覚王山(月見焼)
名古屋市営地下鉄・東山線をご利用いただき、ありがとうございます。次は「覚王山」。
電車に揺られ、どんどん東へ向かっていきます。
「尾張国焼探訪」の次の途中下車は「覚王山」。
名古屋市有数のセレブな街も昔は…
名古屋の「住みたい街ランキング」でも常連の覚王山。
そもそもこの名前は、1904年(明治37年)に創建された覚王山日暹寺(現在の覚王山日泰寺)の山号で、このお寺を中心に開発が進んだ地域を指して「覚王山」と現在では呼んでいます。
つまり、江戸時代(日泰寺ができる前)は、違う名前で呼ばれた場所でした。
それを知るためには、この一帯の地理を知り、そのうえで「尾張名所図会」を見ることではっきりとわかります。
※「尾張名所図会」は愛知県図書館のホームページで誰でも見れます!
国土地理院のMAPを見ると…地形は一目瞭然ですね。
「+」のマークがあるところがちょうど現在の覚王山の駅がある場所です。
ここは名古屋の中心地から見て東側の丘陵地帯の縁(へり)にあたる場所。
名古屋から東山まで行く途中にある小高い丘で、東側に向かって下っているのが分かると思います。
さらに拡大すると、こう。
小高い丘が連続し、間に谷がいくつかできてる様子が分かると思います。
そして東(地図では+マークから右側方向)に向かって急激な高低差が発生しています。
東の方角に向かって下る地形がもたらす効果
では、尾張名所図会を見てみましょう。これは「覚王山」と名前が付く以前の、この辺りを描いた絵図です。
※「尾張名所図会」は愛知県図書館のホームページで誰でも見れます!
刀を差し、チョンマゲを結った男性二人がにこやかに空を眺めています。
右手にはツルツル頭の人も手を当てて何か眺めています。
辺りにはススキが生え、左手にはゴツゴツとした崖部分に松が力強く根を張り、その向こうに「満月」が見えます。
そう、まさしくここは月見坂。
見晴らしがよく、月がよく見える坂なので…そのまんま、名所の名前となりました。
チョンマゲ結った二人の向こう側から、さらにチョンマゲ頭の男性がこちらに向かって歩いてきますね。一人は杖らしき棒状のものを左手に持っていますし、こちら側からは上半身しか見えません。この描き方、相当に急な坂であることを示唆しています。
さて、『満月』が見えるのは『どの方角』でしょう?
ここで唐突に理系の問題…。
答えは東の空です。
絵図の奥に目を向けると、遥か彼方に道があり、小さな人の姿がありますね。そしてさらに向こう側には木が生い茂る山々。
この山が東山方面であることは、満月が見える方角と、先ほどの国土地理院の地図を頭に入れていれば、想像がつきやすいですよね。
東に向かって急に下る見晴らしのよい地形と、そのさらに先にある山。
この組み合わせは、いかにも「月見」にぴったりな景観を生み出すわけです。
とても素敵な場所でしたが、明治以降に開発が住んで建物が林立すると、もはやその面影はなくなってしまいました…。覚王山周辺の町名に「月見坂町」「観月町」「月ヶ丘」など、月にまつわる地名が複数あるのは、その名残なのです。(なんだか、前津の富士見ヶ原と似たような感じです)
なんだか、前田壽仙堂版「ブラ〇モリ」みたいになってきましたが…焼き物の話、いきましょう。
月見焼
前述の通り、明治37年に日泰寺ができると、この辺りは次第に開発が進み始めます。
シャム(現在のタイ王国)から贈られた真舎利があるお寺ですからね。さぞかし参詣する人たちでにぎわったのでしょう。
あちこちから人が集まるということは、そこに「商機」が生まれるのは想像に難くありませんよね。
茶屋ができ、土産物屋ができ、往来の人々を相手に商売をしよう、という…。
渡邉岩助という人も、その一人。
父は尾張徳川家の藩医として枇杷島に住んでいましたが、父が早世し、自分が好きな陶芸をもって身を立てる決心をし、瀬戸・美濃で修行。明治43年(1910)この月見坂に窯を築いて、「月見焼」を始めました。
しかし後継者がおらず、昭和8年に渡邉岩助が61歳で没すると、そのまま月見焼も廃絶してしまいました。
わずか1代限りの月見焼。
風雅な名称も相まって、なんだか雅な焼き物をイメージしますが、その実態はまだよくわかっていません。
1代で終わってしまったゆえに、数がそこまで多くないのです。
実見のイメージから「そこまで大きなものは作っていない」と思われます。
茶碗、向付などの小型の陶器、また仏壇で使うための小型の香炉も見られ、おそらく「土産物」としての需要を見越して製作していたのではないか…と、思っています。