御深井焼06-衰微?再興?18世紀の御深井焼

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どうもご無沙汰しております。

もう3月になっちゃいました、さすがにそろそろ勉強しましょう。

年を跨いでしまい、ちょっとディープすぎる話を挟んだので、年表を見ながら、おさらいしましょうか…。

おさらい・・・御深井焼・関連年表(前半の部)

慶長15年(1610)2月
名古屋城・築城着工
慶長15年(1610)3月
美濃の陶工、加藤利右衛門、及び加藤仁兵衛を瀬戸・赤津村に召寄せ、焼物御用を仰付ける
慶長17年(1612)
名古屋城・天守閣竣工
元和2年(1616)
初代藩主・義直、尾張入府
元和年中(1615-1624)
義直、瀬戸の窯屋を視察、祖母懐土を藩の御用に用いるよう指示(「瀬戸陶竈記」)
寛永年中(1624-1645)
名城・下御深井御庭に窯を築き、御窯屋によって焼き物が生産される
寛永年中(1624-1645)
美濃・元屋敷窯などでも後に「御深井釉」と呼ばれる灰釉が施された焼き物が生産される
寛永11年(1634)
上洛殿竣工、三代将軍・家光は尾張で2日駐泊して上洛
慶安3年(1650)
義直歿、二代・光友、藩主となる
明暦2年(1656)
尾張藩、幕府より江戸・市ヶ谷屋敷を拝領する
寛文6年(1666)
瀬戸において、祖母懐土・山呉須の私掘が禁じられる
延宝7年(1679)
森田久右衛門一行、尾張・瀬戸に立ち寄り、尾張周辺の焼き物の話を記録(茶入の記述)
天和~貞享年中(1681-1688)
御深井窯で折々焼き物を生産したという伝承が残る

 

やはり時系列の年表形式にすると、一連の流れがイメージしやすいでしょうか。

実は100年に満たない期間の出来事。「前半の部」と銘打っておきながら、まだ尾張藩の長い歴史の3分の1ぐらい。

いかに「御深井焼」というものが、ザックリとした括りであるか、お分かりいただけるでしょうか?

たった3分の1の話をしたのに、とーっても濃密なお話なんです。

それからどうなった?御深井焼

17世紀に始まった名古屋城の焼き物。今のところ「18世紀になって一時衰微していたが、19世紀頃、尾張藩十代藩主・徳川斉朝のころに再興された」と、言われています。

色々、探したのですが…「衰微していた」という情報の根拠がイマイチ判然としません。

「斉朝のころに再興された」といわれている根拠はわかっています。

19世紀に藩主になった斉朝は、名古屋城二の丸庭園や下御深井御庭の改造に着手します。このころの様子を伝える「源順様御代下御庭図面」という絵図に「かま」という記述が残されているです。なので、「遅くともこの頃には名城・御深井の窯は稼動していた」と考えるのは、妥当だと思います。

ただ「加藤唐三郎家文書」を読む限り、1700年代の御深井焼は「断絶」とまではいえないようです。

「衰微」という絶妙に「解釈のハバ」を持たせた言葉で、お茶を濁しているような…。

うーん、ニホンゴってムズカシイね。(> <)

「加藤唐三郎家文書」とは何ぞ

また唐突に出てきました、古文書。

歴史のお話をすると、どうしても史料を説明するのに尺を取られ、回りくどくなってしまうのが難点ですよねぇ…。

と言っても、ハブくわけにもいきませんので…お付き合い下さい。

昔の勉強部屋にちょこっとだけ言及がありましたが・・・「江戸初期、美濃から瀬戸に召致された陶工が御深井焼に従事していた」というのを、覚えていますでしょうか?

上の年表にも「加藤利右衛門、及び加藤仁兵衛を瀬戸・赤津村に召寄せ、焼物御用を仰付ける」とありますが…この「加藤利右衛門」の家が「加藤唐三郎家」なのです。唐三郎・仁兵衛の後、さらにもう一家(太兵衛)が加えられ、尾張藩に仕えた3つの家は「御竈屋(御窯屋)」と呼ばれます。

つまり加藤唐三郎家文書とは、尾張藩の焼き物に関わった「御窯屋」に残された、様々な記録・文書のことです。

現在も続く加藤唐三郎家に伝わる文書であり、一般公開もされていませんので、その存在自体があまり知られていません。尾張藩御用達の御窯屋として、御深井焼の生産に深く関わっていたこの家に伝わる文書の内容は、それがそのまま尾張藩の窯業・産業政策の一端を示すものであり、陶磁史・美術史を研究する上で非常に重要な史料なのです。昭和後期から美術館による研究が進められており、その一部の内容は研究論文から一般の人も知ることが出来ます。

というわけで、この加藤唐三郎家文書の内容が活字でまとめられた「金鯱叢書」を読みました。愛知県の図書館にいけば、大抵おいてあると思いますので、気になる人は読んでみましょう(すんげぇ、マニアックな内容ですよ)。

以降の内容はこの「金鯱叢書(創刊号)」に記載された、「史料紹介 尾州家御窯屋 加藤唐三郎家文書」から引用したものです。

18世紀の御深井焼の実像は…?

では、この「加藤唐三郎家文書」を基に、おさらい年表のさらに後、1700年代(18世紀)の御深井焼について探ってみます。

慶安三年~明和四年 竈屋加藤家御用勤方書上

享保6年丑(=西暦1721年)六月 御深井御用被仰付、三人 共相勤申候

殿様(=当時の藩主・継友?)御上覧之節ニ御ほうび頂戴仕、御道具 三竈焼上申候而

十一月七日ニ前ゝ之御ほうび 壱人え五人扶持宛頂戴仕候 泉光院様(=六代藩主・継友の母)御上覧被遊候而ほうびとして新金 百疋被下置頂戴仕候

同年八月十三日ニ すいりゃうゐん様(=不明?)御上覧被遊、御ほうひ金 百疋頂戴使候

享保14年酉(=1729年)八月 御深井御用被仰付、三人共罷出相勤申候節、壱人江三人扶持被下置、御褒美金五百疋宛頂戴仕候、御上覧之節々御褒美御酒・御菓子頂戴仕候

寛延2年巳(=1749年)四月 御深井丸御用被仰付、三人共罷出九月迠相勤申候、御上覧四度御座候而節々御褒美頂戴仕候、御扶持御褒美不相替頂戴仕候

明和4年亥(=1767年)○月 御深井丸御用被仰付、三人共罷出翌子三月二日迠焼物御用相勤申候處、御上覧之節御褒美として御酒・御菓子頂戴仕候 御竈三竈焼上褒美金壱人へ弐両宛頂戴仕候

ところで「漢字の羅列を見ると、なんだか拒絶反応が出る」って人、いません?僕は国語の漢文の授業が苦手でした…。

でもまだこれ、翻刻版ですから、読みやすいのですよ?

慶安3年(1650)から明和4年(1767)の間に、唐三郎家が尾張藩から命を受けた「御用」の内容が書き記されたものです。(今回は紹介しませんが)唐三郎たちは藩から様々なお仕事を指示されていたようで、名古屋城に限らず、江戸にも赴いています。

これらは1700年代の事柄で、主に「御深井焼」と関連がありそうな部分を抜粋したものです。

どれも「御深井御用(もしくは御深井丸御用)」を仰せ付けられ、三人でお勤めに出向いた、という内容。ここでの三人とは、尾張藩に従事した3家の「御竈屋(御窯屋)」である、唐三郎・仁兵衛・太兵衛の3人のことですね。そしていずれも「御上覧之節」「御褒美」「頂戴仕候」とあります。

「御上覧」とは、焼き物を制作する過程(土作り、成形、絵付け・施釉、焼成のどれか?)を、身分の高い人たちが見に来ていた、ということだと考えられています。要するにデモンストレーションをやって、褒美を頂戴しましたよ、という内容なんですね。

「身分の高い人」の具体的な例でいえば、「享保6年」の記録には「殿様」が出てきてます。恐らくは当時の藩主・継友だったのではないか?と、思われます。殿様以外にも、藩主の奥様・お母様、または藩の重臣も一緒にいたでしょう。さらには身内だけに限らず、他藩の大名・高位の武士、公家の関係者などが、尾張に逗留した際、藩の接待として御深井の窯に訪れていたことも想像できます。

これまでの勉強部屋では、初期の御深井焼について「贈答品としての陶器生産」としての一面をちょっと大仰に喧伝しましたが…この頃になってくると「エンタメとしての御庭焼」、そんな一面を感じますね。

見るだけじゃなく、一緒になって茶碗を作った人もいたかも(?)…しれません。

こうして残された記録だけを見ると…そんなに頻繁に「御上覧」をやっていたわけではない…ように、思えますね(だいたい、10~20年の間が開いてます)。

もちろん「記録に残っていないだけで、御深井での焼成は行われていた」という、可能性はあります。

「衰微していた」という表現になるのは、「頻繁に作っていたわけではない」いうことなんでしょうか。まだ謎の部分が多いです。

御窯屋のおしごと

というわけで、「18世紀になっても、御庭で焼き物が焼かれていた」ということをご紹介しました。

これまでの勉強部屋・御深井焼の回に比べて…とてもあっさりと「18世紀」で括ってしまいましたが…史料が乏しく、今だよくわかっていない、ということでご理解下さい。印銘があったのか、なかったのか、このころどんな焼き物を作っていたのか、詳細にはわかっていないのです。

そして、ここにきて「御窯屋」という存在にクローズアップしたのは、この御窯屋の三家(唐三郎・仁兵衛・太兵衛)が尾張藩の焼き物、つまり御深井焼に深く関わっている存在だということをお伝えしたかったからなのです。

次回はこの「御窯屋」を少し掘り下げていき、御深井焼との関係性、さらには19世紀の御深井焼についてのお話に移っていきます。

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