特集「尾張茶人名鑑NEXT」
尾張の茶人 Next Generation
過去の勉強部屋で採り上げた、尾張の茶人の略歴を一覧でご紹介。
江戸後期(18世紀)
千村伯就
江戸中期~後期の武士。尾張藩士。名は「諸成」、字が「伯就」、この他に「鵞湖」「自適園」「大観廬」などと号している。
尾張藩士・千村氏の家(父は千村夢沢)に生まれ、祖父に養われる。元文元年(1736)、千村家の家督をに継ぐ。寛保2年(1742)、第八代藩主・徳川宗勝の小姓ととして近侍。延享4年(1747)に病のためにその職を辞した。病気治癒ののち、宝暦年中(1751-64)には先手物頭に登用され、江戸に赴任。安永5年(1776)、職を辞す。
若いころから詩を石嶋筑波に学び、また明和9年(1772)には僧・月僊と出会い、お互いに画と書を教えあう間柄として交友。茶の湯は河村曲全に師事し、「大観廬」という茶室を持った。同門である大橋遅松は伯就の事を「曲全斎門下の一大巨壁なり」と評しており、文化的素養が非常に高い人物だったことが窺える。
若山帰入
江戸中期~後期の茶人。通称を「亀屋六兵衛」といい、尾張で何らかの商いをしていた人物と思われる。「帰入」「喜入」などと号した。
茶の湯を久田宗也(久田家4代・不及斎)に師事し、高田太郎庵とは同門の後輩にあたる。その太郎庵より「草結庵」の扁額を譲り受け、草結庵とも号した。中須賀町(現在の中区栄2丁目付近)の自宅に四畳半、二畳、三畳の茶室を作り、79歳で没するまで生涯一日として欠かさすことなく茶を喫していたと伝わる。
「草結庵」という同名の茶室が覚王山日泰寺に現存する。もともとは中区の長栄寺にあった茶席で、「太郎庵の好み」と伝わる。
瀧本土休
江戸中期~後期の茶人。尾張の左官職人。名古屋・呉服町の人。
壮年のころに京に赴いて松尾翫古斎(松尾家二代)に師事。左官職人として多くの茶席建設に携わる中で、武士や商人など幅広い交友関係があったと思われる。しかし具体的な交友関係は不明なところが多く、ゆかりの道具もあまり伝世していない。
菩提寺である西光院(現在の白川公園の付近)に「粗糲庵」という茶室を建てている。
河村蝸牛
江戸中期~後期の茶人。天満屋・河村曲全の孫。通称は「佐市」、「玉春斎」「玉椿斎」「蝸牛」などと号す。
収縮して移動が可能なユニークな茶室「蝸牛庵」を考案し、茶友である千村伯就は「蝸牛庵記」でこの茶室を鴨長明の方丈に例えている。
また常滑焼や豊楽焼など、地元の陶工を指導して好みの茶器を作らせている。伊奈長三、赤井陶然、加藤豊八などの名前と蝸牛の銘が添っている焼き物(水指・花入・灰器など)が現存。また「蝸牛好」として大喜豊介(三代)も制作している。
【参照】尾張の茶の湯NEXT04:河村蝸牛(前編) ・ (後編)
杉山見心
江戸中期~後期の武士。尾張藩士。通称は「伝蔵」、名は「藤五郎」のち「良隆」。「見心」と号す。
杉山元右衛門重次の養子となり、安永元年(1772)7月、養父の遺領400石を継ぐ。江戸詰の際、川上不白や山東京伝・十辺舎一九と親交があった。自邸には不審菴を模した茶室「不退庵」をもうけ、余暇には点茶器などの陶器をつくった。
瀬戸の陶工・加藤春宇の印銘と、「見心」の印が同一の器に捺された作品が現存しており、春宇の手を借りて茶器を焼いていたと考えられている。
飯田布袋堂
江戸後期の武士。尾張藩士。通称は「三八郎(八三郎)」、名は「俊武」。「布袋堂」と号す。
貞置流(有楽流)の茶儀を好み、安永6年(1777)より茶道を学ぶ。千村伯就ら、他流の茶人とも親しく交わったとされるが、詳細は不明な点が多い。晩年は好みの茶器を作っていたとされ、「キ楽」などとあるものは布袋堂の好んだ茶器といわれる。
【追加】補遺編
香西文京
江戸中期~後期の尾張の医師。
山本自敬軒
江戸中期~後期の尾張藩士。