尾張の茶の湯NEXT02:若山帰入

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引き続き、尾張の茶人をご紹介していきます。

3年前にやった「尾張の茶の湯」シリーズでご紹介した茶人より、はるかにディープでマイナーでローカルな茶人がどんどんでてきます。

伯就でも十分知名度がありませんが、今回はさらに知名度が低いです。

回を追うごとに、この手の話はどんどん知名度がなくなっていきますねー。(苦笑)

今回も「尾州千家茶道之記」を読んでみましょう。

千村伯就が「曲全門下の一大巨壁」と評されたような、遅松の「ちょっと大げさな表現」に着目すると、もう一人の茶人が浮かび上がります。

※勉強部屋について

「無類の数寄者なり」

本町下に隠居して草結庵帰入と云う。久田宗也門人で無類の数寄者なり

若山帰入いう茶人について、遅松はこのように言及しています。

若山帰入は通称を「亀屋六兵衛」といったことから、恐らく何らかの商いをしていた商人だと思われます。

そして久田宗也とは、久田家4代・不及斎宗也のことで、高田太郎庵とは同門の後輩にあたる人物だと思われます。

※太郎庵についてはこちら

太郎庵が原叟手造の茶碗「鈍太郎」をくじで引き当てたことから「太郎庵」を名乗ったというお話は以前紹介しましたが…どうやらそれ以前に使っていた「草結庵」の庵号が不要になり、この扁額を同門で後輩の帰入に譲ったようなのです。

それを機に帰入が草結庵と号し、中須賀町(現在の中区栄2丁目付近)の自宅に四畳半、二畳、三畳の茶室を作り、79歳で没するまで生涯一日として欠かさすことなく茶を喫していたと伝えられます。これぞまさに「無類の数寄者」…なのか?

現在ではほとんど知られていない茶人ですが、遅松がこのような表現をしていることから、ひとかどの茶人だったと思われます。

唯一現存する、「太郎庵好み」の茶室

さて「草結庵」というと、実は名古屋に全く同名の茶室が現存します。覚王山日泰寺にある茶室、「草結庵」です。

もともとは中区の長栄寺にあった茶席で、天明年間(1781-1789)、臥山静高による創建、高田太郎庵による好みであると言われています。襖で仕切られた相伴席を備えた織部好の燕庵形式に、利休好の三畳台目を組み合わせた形の茶室です。この構造から「貴人席」という俗称があり、長栄寺にあるころはもっぱらこちらの名前で呼ばれていたようです。昭和37年(1962)に現在の日泰寺へ移築されました。

実はアートフェアで「前津小林村」を特集した際、僕はこの「長栄寺にあった貴人席」の存在を知ることになるのですが…以来、僕はモヤモヤと腑に落ちない…「変だなぁ、なんだろうなぁ…」と疑問を抱えています。

というのも、「天明年間の創建」なのに、「太郎庵が好んだ」というのが、どう考えても「時空がねじ曲がっている」としか思えないのです。

一体、いつからこのように呼ばれているのか…?

日泰寺の公式ページや愛知県の文化財を紹介するページ、尾張の茶の湯についていろいろまとめた本を読んでも、なぜ「草結庵が太郎庵の好みなのか」の根拠が一切不明なのです。昭和10年に発行された前津旧事誌でも「太郎庵の好み」と書かれています。

つまり、長栄寺にあったころからすでに「太郎庵好み」と呼ばれていたのは確実です。

周りがみんな口を揃えて「こうだ」と言っているところに、こういうツッコミを入れるのは野暮なのかなぁ…と、ちょっと逡巡しましたが…。

高田太郎庵は「宝暦13年(1763)歿」と、されています。

時空がねじ曲がってる…?

つまり…貴人席が創建されたと言われる天明年間(1781-1789)に、もう太郎庵はすでに没しているのです。没してすぐならまだしも、10年~20年近い間が空いてるのは、どうも不自然です。何らかの理由(「生前の太郎庵の好みを再現した」とか「太郎庵の遺稿を基に作った」とか)があって、建てられたのであれば…「まあ、そういう事もあるんだなぁ」と、ある程度納得できなくもないです。でも、そういった事象や経緯さえ、特に伝えられていません(僕が知らないだけかもしれませんが)

ってここまで調べて考察しておいて…「尾張の茶道」を読んだら、故・中村昌生氏によってバッチリ言及されていました。

草結庵の額が茶室に添っているが、果たして太郎庵が用いていて亀屋帰入に譲ったという額であるかどうかは明らかではない。そして茶室も、太郎庵の作とは称しながら、その確証はない。長栄寺では「貴人席」と称せられ、天明年間、同寺第十一世臥山和尚の時に出来たと伝えられていた。とすると、太郎庵歿後の造立ということになり、太郎庵の茶室を写し建てたとでも考えなければ、彼の好みの席とは認められないことになる。しかし何れにしても、太郎庵の好みと伝えられてきたことには、何か理由があったに違いない。

さすが、数寄屋建築の超エキスパート…きちんと歴史を調べて、昭和の時代にこのような文章を残して下さっている…。

そこでこの「若山帰入」が登場します。「尾州千家茶道之記」の注釈によれば、若山帰入は寛政元年(1789)まで生きていました。つまり帰入の最晩年は天明年間であり、この貴人席が創建された時期に生きていたはずなのです。

太郎庵じゃなくて…若山帰入の好みである可能性が非常に高いんじゃないかなぁ…と。

若山帰入を調べてみて、ほぼほぼ確信に近いものが…。

太郎庵の好みの茶室はことごとく戦災で焼けてしまっており、この草結庵は「太郎庵の好みを今に伝える貴重な建造物」として、名古屋市指定文化財にも指定されています…。しかし何故か「太郎庵の好み」ということに懐疑的な部分があることについては、全然触れていません…。

うーん…このブログ記事はそのうち「謎の圧力」で消えるかもしれません。r(・∀・;)

ヤバイなぁー(苦笑)

大丈夫か、こんなこと書いちゃって…。

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