尾張の茶の湯NEXT03:瀧本土休

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引き続き、尾張の茶人をご紹介します。

大橋遅松と近しい世代の尾張の茶人をご紹介してきましたが、遅松よりも年下の世代の人は、資料もあまり多くありません。(尾州千家茶道之記に記載がない場合も当然、あります)

そこで今回は名古屋市史・人物編を基に茶人を紹介します。

※勉強部屋について

名古屋市史とは?

文字通り、名古屋市の歴史について編纂した自治体史です。明治時代から編纂が行われており、この「人物編」は1934年(昭和9年)に刊行されたものです。現在でも名古屋に所縁のある人物を調べる際、真っ先に調べるべき史料の一つです。

様々な活躍した分野ごとに人物がまとめられており、その中に「茶道」の分類もあり、過去に取り上げた河村曲全や高田太郎庵などもここに編纂されています。

「老に及んで猶矍鑠として壮者に異らず」

曲全、太郎庵の次の世代の茶人として記載があるのが、瀧本土休です。

通称は善七といい、下呉服町に住んだ優れた左官職人として知られた人でした。風雅を好んで、壮年のころに京に赴いて松尾翫古斎(松尾家二代)に師事した茶人でもありました。名古屋市史人物編によると、武士や商人など幅広い交友を持っていたようです。

菩提寺である西光院に「粗糲庵」という茶室を建てており、「老に及んで猶(なお)矍鑠(かくしゃく)として壮者に異(かわ)らず。」という人物評があることから、晩年まで茶の湯を大いに楽しんでいた人物だと思われます。

ちなみに西光院とは、現在も名古屋に現存する寺院ですが、現在地の昭和区に移築される前(戦前)は中区白川町、現在の白川公園の付近にあったお寺です。

「粗糲庵」が現在も移築されて残っているかどうかは…すみません、調べきれず不明です。

どんな茶人だったんだろう?

この時代の人としては珍しい、武士でもなければ商家の旦那とも言い難い身分ながら、茶人としての名前が残っている稀な人物です。

左官職人という立場上、茶室建築で様々な茶人と関わりをもったということは想像に難くありません。尾張の町衆界隈で茶の湯が広がる一連の流れの中、新たに茶室を設える特需が発生した、という筋道はイメージしやすいですよね。ただ、それ以外の事は特に事象は伝えられていない人物なので、人物像がかなりボンヤリしています。

ここからは僕の勝手な想像ですが、結構ハイレベルな侘び数寄の茶人だったのかなぁ…なんて思っています。

「ゆかりの道具がほとんどない」という現状からの、逆説的な考え方ですが…。

恐らく町人や武士ほど資金は潤沢ではなかったでしょう…ゆえに茶道具の「旧蔵者」としてモノはほぼ残らず、名前だけが後世に伝えられている…。

名物を一切使わず、ありあわせや見立ての道具で、面白い席の趣向でお茶を楽しんでいたのかな?って。

「粗糲庵」という庵号の「粗糲(それい)」とは、「精製していない米」のことで、粗末な食事のたとえだということも、何やら示唆的な気がします。

実際、ゆかりの道具って茶杓ぐらいしか見たことがありません(僕が見たことないだけで、実際はもっといろんな道具があるのかもしれませんが)。そこに後の時代になって、松尾流の宗匠が追筒や箱書を認めていることからも、やはりよっぽどの人物だったというのは確かだと思います。でなけりゃ箱書・筒書を書く意味が分かりませんよね。

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