辛辣な遅松さん
面白い記述を見つけたので、ちょっとご紹介。
突発形の勉強部屋。シリーズでも何でもない、ただの思い付きです。
御深井焼、尾張国焼鉄道と続けてきて…
さすがに焼き物の事を調べて勉強するのも、ちょっと飽きてきましてねぇ…。
で、最近はまた「尾州千家茶道之記」を読んでいます。
こういうのはね、何度も読んで、ちょっとづつ噛み砕いていかなきゃ…
中々自分の知識として取り込めないものなのです。
凝り性で、辛辣だけど、素直じゃない
僕の中で「茶人」というと…
対象は様々ですがとにかく興味のアンテナが広くて拘りが強く
些細なことにも厳しく目を光らせ、何かあるとブツブツ文句言うけど
決して声は大きくない偏屈な人
という、イメージがあります。(※あくまで個人の感想です)
(東京修行中に出会った人たちの影響が及んでいるのかな…?)
世間一般では「個性的で魅力的だけど、面倒な人」なのかも、しれません ( ;´-ω-`)
「尾州千家茶道之記」は茶書としてはかなり異例な「茶人」についてをまとめた本です。この中にも実にたくさんの茶人が登場します。
かつて「尾張の茶道」シリーズ後編で町方茶人を特集した際に列挙した、道幽、野水、曲全、太郎庵たちは「尾張の主要な茶人」としてしっかりしたボリュームの情報量が載っています。でも、基本的にほとんどの人物は数行、サラッとしか触れられていないのです。
考え方によっては、この著者である大橋遅松もまた一茶人なわけで…この本自体が大橋遅松を理解するための膨大な史料、という見方もできます。茶人のフィルターを通して映し出される人物像、そして人物像に反射して見える著者の像、というのが思った以上に面白い。
この本を隅々まで目を通すことで、だんだんと遅松のイメージが浮き上がってきます。
やっぱり僕の中での「茶人らしい茶人」のイメージにハマる人物ですね(笑)
そして大半の茶人について数行でしか述べられていない中、イレギュラーな存在を発見しました。
ほぼ「遅松の愚痴」と思しき個所がなかなかに面白いのです。
なんだか遅松の思想を表してるような気がします。
まあハッキリ言って、対象なる人物自体は勉強する意義は薄いですが、興味を持っていただくきっかけとしてご紹介します。
謎の人物
森助左衛門という人物について、遅松が述べた部分を引用します。
舟入町の半田屋で之斎と号す。始め川村曲全斎門人にして目利の事も曲全斎に聞く。曲全斎歿後は松尾宗五に暫く学ぶといえども性茶道を好まず。ただ道具を収集して人におごる迄なり。書物なども新渡りの珍書を買うといえども、これ又開巻より一紙をも見ず。ただ有銭の光を以て人にほこる為なり。禅学をする事も知らず。人にほこる為の事にて何事も己が為にするにあらず。大金にて宝樹庵と云う井戸茶碗の名物を所持し、一生人に見せることもなく、道具屋の内一人か二人に見せて我が身を高ぶるためにせし。茶道も全くこの類なり。彼らを以て茶人の内に数えるは浅ましき事に非ずや。
ね?ほぼ嫌味とか愚痴の類でしょ(笑)
「彼らを以て茶人の内に数えるは浅ましき事に非ずや。」
最後の一文がマジ痛烈です。まさしく一刀両断。
「彼ら」の中に道具屋が含まれているニュアンスなので、僕も思わず背筋が伸びる思いです(苦笑)
ここまで辛辣に書いてるのは、よっぽど腹に据えかねる存在だったのか…。こういう記述を見つけると、逆に遅松の人物像がうっすら見えてきますよね。
「始め川村曲全斎門人」で、「曲全斎歿後は松尾宗五に暫く学ぶ」ということは…遅松とは同門かつ、師匠の曲全が没した後も生きていた様子が窺え、遅松と近い世代の人物なのでしょう。遅松の身近にいて、鼻持ちならない奴だったのかな?
これはもう僕の勝手な想像ですけどね…恐らくそんな「嫌味」は当人相手には露とも見せず、心の内に秘めておき、この書物でバッサリ切り捨てているのでしょう。ザ・偏屈。
なかなか興味深いのが「宝樹庵と云う井戸茶碗」の記述。これは恐らく現存しており、現在は石川県立美術館が所蔵している名物茶碗の事だと推察されます。僕は2年前に石川県美で開催された特別展「美の力」で拝見しました。このエピソードを知った上で見たかったなぁー(笑)
宝樹庵の伝来は「かつて尾州犬山にあった」とされていますが…どうやらこの前後に、この森ナントカさんが大枚叩いて手に入れたんでしょうかね…。
人に自慢するためだけに高価な茶器を買い集め、茶の湯を「自慢の場」としか考えていないような輩を、遅松はキツイ言葉で非難しています。愚痴というより、「こうなってはいかんぞ」と悪い見本を示しているかのような、そんな遅松の思いが溢れて、読んでるコッチは思わず笑えて来ます。
ただまあ、さすがに「曲全斎に指南を受けた」という道具の目利きは確かだったようですね。あの宝樹庵を持っていたとすれば、大したものです。
茶人は偏屈、流儀を守るためかな。茶会に行くと、自分のお茶のスタイルに少し自信を持っているから、他人の道具と考え方に羨望とまたつまらなさを感じる。お茶で渡世をしている先生は流儀に閉じ込められているので、いつも同じパターンで気の毒かな・??なんだこれはという茶会に出会いたいものです。道具を秘蔵して、噂であそこにはこんな道具があるらしいと言われて、人に見せないのも面白いかな。
こんにちは。コメントありがとうございます。
>茶人は偏屈、流儀を守るためかな。
「江戸の中頃、町方茶道が隆盛したころの茶の湯」における「流儀」と、「維新後から現代に続く茶道」における「流儀」では、言葉のニュアンスに違いを感じます。師匠と弟子の在り方とか、茶道具に対する考え方とか。社会・経済・生活のスタイルが違えば、物事の考え方も違っていたでしょう。ただ茶人って、今も昔もそう変わりがないもんだな~と、僕は感じています。言い方悪いですが、変な人ばっかり(笑)でも、そこが面白い…というより…それゆえに、面白い。中庸では、やってる方も関わる方もイマイチ面白くないでしょうから…。結局は趣味嗜好の一つですし、「数寄」だけに好きにやって、結果偏ってしまって「面白い」「面白くない」という見え方が分かれてしまうのは、仕方がないことだと思います。