尾張の茶の湯NEXT05:杉山見心

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引き続き、尾張の茶人をご紹介していきます。

前2回の河村蝸牛は思わず深堀してしまいましたが…

この江戸中期~後期の時代になってくると、資料が不足してきて、不明な点が多くなってきます…。

以前の「尾張の茶の湯」シリーズ同様、比較的、その存在が確実な人物に絞って紹介しています。

「常に茶事を好み、其自作の茶器は今日世の賞玩するところなり」

土休に続き、またしても名古屋市史人物編の「茶道」からお出ましいただきます。

今回ご紹介する、杉山見心は江戸中期~後期の尾張藩士です。

※「名古屋市史人物編」だけではやや不足するので、いくつかの資料(一楽會誌、をはりの花、等)を統合して解説します。

見心は尾張藩士・鈴木安太夫の子として生まれ、藤五郎と称します。後に杉山元右衛門(三右衛門?)重次の養子となり、安永元年(1772)7月、養父の遺領400石を継いで、馬廻組として尾張藩に仕えます。その後、熱田奉行、側用人を勤めます。

勤めの間に茶の湯を嗜み、江戸詰の際(尾張藩の仕事で江戸に赴任した時)には、川上不白と交友があったといわれます。

また自分の好みの茶器を作り、中でも瀬戸釉の器は最も得意としたようです。

実父が「尾州千家茶道之記」にでてきた・・・?

「江戸詰の時、川上不白と交友があった」という説明に、僕はなんとなーく違和感を感じていました。

「なんか、唐突に不白がでてきたなぁ…」と。

そこである日、「尾州千家茶道之記」を読み込んでいたら、気になる記述を見つけました。

鈴木安太夫

始め川村曲全斎に習学。曲全斎歿後は江戸にて川上宗雪に千家の当流を聞き、後に啐(?)啄斎の門人となる。一両年は堀内宗幽の弟子となる随分の数寄にて、武家方の内にては世話やきになり。後に法体して宇井啄応と云う。子息三蔵は久田宗也門弟なり。

日比野先生の注釈によると、この鈴木安太夫とは、尾張徳川家に仕えた鈴木安太夫重政の家系に連なる人物、鈴木重富のことだとしています。鈴木重富は享保16年(1731)に父・重弘の家領600石を継ぎ寄合となる。のち足軽頭、御城附、新御番頭、熱田奉行兼御船奉行、町奉行を経て明和4年(1767)12月1日御書院番頭となる。

「一樂會誌」などに出てきた、杉山見心の実の父の名前と全く同じなんですねぇ…。

ただし、同一人物という確証がありません!安易な紐づけは要注意です。

「尾州千家茶道之記」では、全く杉山見心との関係性について言及していませんので。

時代考証の点で「見心が生まれるより前に活動している」という点はクリアしています。曲全斎に習学、というのが若干、引っかかるポイントです。大橋遅松が晩年の曲全に師事していたことや、70代の書付の道具が存在する事を考慮すると、「曲全は没する(1761年・宝暦11年)直前まで茶の湯の指導をしていた」と考えれなくもないので…「なくはないかも?」といった感じでしょうか。

気になるのが、この鈴木安太夫が、曲全斎歿後に「江戸で川上宗雪から、千家の当流を聞きいた」という記述。この時代の「江戸の川上宗雪」というのは2人の人物が可能性があります。川上不白[1719 – 1807] or 自得斎宗雪[1738 – 1822]…いずれにせよ、江戸千家の最初の2人のどちらかです。(恐らく、不白だと思いますけど)

不白は32歳で江戸に赴いたということですので、ここでさらに「1750年以降」と年代が絞りこめます。尚、尾州千家茶道之記が書かれたのは「安永3年甲午年(1774年)」なので…時代考証の破綻は今のところ見られません。

ちなみに1750年(寛延3年)とは、杉山見心が生まれた年でもあります。尾州千家茶道之記で杉山見心について言及されないのは、これが書かれた当時まだ23、4歳の若造だったから、という考え方で良いでしょう。

見心は後に表千家の「不審庵」を写した茶室を設け、不退庵と号したとも伝わります。この辺りにも「表千家」との関わりをにおわせますね。

「この話はまだ推測の域を出ない」と、注意喚起をいつもより多めに出しておりますが…見心の実の父親が鈴木重富なのかもしれません…。

尾州千家茶道之記の中にある「鈴木安太夫」なる人物評は、武士としてはかなり茶の湯をやっていた様子です。不白を介して表千家に入門し、表千家の宗匠・堀内宗幽(方合斎)に師事していたと伝えています。その人の実の子供として生まれたのが見心だったとしたら…有名な川上不白との関わりがあるのも頷けます…。この辺りのことは、もう少し深堀ができそうですが…まだまだ潜り切れていません。

手造の茶器をつくっていた

名古屋市人物編の人物評にもあるように…見心は尾張の茶人の中でも、「やきもの好き・アマチュア作者」として比較的早い段階で在印・在銘の作品を残していた一人です。

過去の勉強部屋「御深井焼」シリーズでも取り上げましたが、覚えていますでしょうか。

おさらいになりますが…一介の藩士であり、陶芸に関して素人同然の茶人が、いきなり「モノ好きが高じて焼き物を作れるようになる」わけがありませんよね?

土・釉薬・窯・燃料etc…これらの調達を全て自力でやるのは…想像してみてください…とーっても困難です。非常にコストパフォーマンスが悪いので、余程身分の高い人を除き、「自分の好みの器を作ろう」という発想にすら、なかなか至らないでしょう。

が、幸いなことに…江戸時代から尾張周辺は窯業地があちこち(瀬戸、美濃、常滑、名古屋城御庭の御深井、城下の豊楽や笹島)にあったので、そこに従事する職人とコネクションができれば、「こんな焼き物、作ってちょぉ!(名古屋弁)」という事を比較的やりやすいお国柄だったといえます。

これもこの地方独特の傾向であり、この手の茶人がこの時代から先、複数人・同時多発的・連鎖的に出現しているのは、他の地域にはあまりない特異性です。

前回の勉強部屋でご紹介した、河村蝸牛が豊楽常滑「好み」の器を焼かせていたように、見心もある陶工の手を借りて、焼き物を作っています。

具体的な陶工の名前が分かっているのは珍しいケースで、見心はまさにそのレアケース。瀬戸の加藤春宇の手を借りているのです。(春宇についてはこちら

「春宇」在銘の平茶碗

蝸牛は焼き締めの南蛮写が中心でしたが…見心は瀬戸で様々なタイプの焼き物を作って(造らせて)おり、中でも瀬戸釉の器は昔から評判になっていたようです。器種も様々、茶碗や水指、鉢などの轆轤を挽くタイプは恐らく春宇の手が入っているでしょうが、小形の茶器(茶碗、蓋置など)は本人の手捏ねかと思われるものもあります。作品には「見心」の彫銘、もしくは印銘があります。

見心は自分の好みの茶器を節目に友人に配っていたようで、「年賀」などと在印・彫のあるものもあります。

杉山見心と加藤春宇

杉山見心
寛延3年 – 文化8年(1750年 – 1811年)
加藤春宇(瀬戸・北新谷)
生年不詳 – 文政10年(17??年 – 1827年)

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