尾張国焼鉄道の旅15:川名(川名焼)

旅の終わりが近づいてきました。

いくつか、駅をすっ飛ばしているので、これですべての尾張国焼を全部網羅したわけではないのですが…今回で一応の区切りとなります。

時間のある時に、「補遺」としてすっ飛ばした駅も追加できればな…と思っております。

では最後の駅は川名駅です。

川名村

名古屋城下の外れに位置しますが、実は結構歴史が古く、この辺りには戦国時代、佐久間氏が居城としたお城があったと言われています。

そして江戸時代、名古屋城が作られ、家康が駿河と名古屋を往来するためにここに「駿河街道」が整備されます。現在の「飯田街道」の一部ですね。

村落の周りには田畑が広がり、東側は丘陵地帯の縁にぶつかり、この辺りは高低差がある地形になっています。

川名焼

ちょっと言い方悪いですが、そんな田舎の川名村にある男がやってきます。

加藤新七といって、瀬戸で二代・川本治兵衛(塐僊堂)という染付の名工の下で修業をした陶工の一人。彼がここ、川名村の香積院山内に新たな窯を築き、染付磁器の生産を始めたのは嘉永年間(1848-54)頃だと言われています。

当時、急激に発展した瀬戸の染付磁器は瀬戸の人たちの生活を支える重要な産業でした。(いずれ、勉強部屋で「瀬戸染付」もやらねばいけませんね…)そんな染付磁器を「瀬戸以外」で始めようとした新七に、瀬戸から猛烈な抗議があったと言われています。

今風に言うところの「利権」という奴ですねー。r(・∀・;)

「瀬戸以外で染付磁器を作ること罷りならん!」

と、言ったか言わずか…。今回は話が逸れるので、すごく大雑把な解説になりますが…瀬戸は尾張藩による製品流通の庇護(尾張藩陶磁器専売制度・蔵元制度)を受けながら、藩に税を徴収されている立場なのです。そうした「システムの輪の外」で勝手にやられると困る。瀬戸の人たちにとっては「(課税を逃れた)安価な製品が市場に流される」のは避けたいわけです。

そこで新七は「銅板転写」という当時の最新技術を使った染付を生産することで、この批判を回避します。

磁器の一大生産地であった有田と同様に、瀬戸もボディ・絵付け・焼成という、いくつかの行程を分業することで効率化が進み、特に「陶画工」という絵画の技法を習得した「絵付けの専門家」がいたことからも、「人の手による絵付け」にこだわり、特徴があったのは間違いありません。その絵付けに関する部分を「銅板転写」という、明確に違った技法で作ることで

「これは瀬戸の染付とはちょっと違うよ~」

という、いわば抜け道のような手を使って磁器の生産を続けるのです。

銅板転写


川名焼 銅板染付捻子文火入

作品を見比べれば、「瀬戸染付」との違いが明確にわかりますよね?

人の手によって絵付けが施されたものと、この銅板転写の技法で絵付けが施されたものでは呉須の線がまるで違います

瀬戸染付 祥瑞写茶器

筆で絵付けを施すのと違い、銅板転写は文字通り「転写」、つまりプリントの技法によって、同じ形板を用いて同じ図柄をいくつも作ることができます。さらに筆では限界がある緻密な表現も可能になります。複数の形板を使い分けることで様々な文様を器面に施すことができます。

ただ銅板転写は当時最新の技術であり、成熟度に問題があった(歩留りが悪かった?)のか、川名焼は一時廃れていたと言われています。安政年間(1854-60)に新七と同じ塐僊堂の門下で、滋賀の湖東焼に招かれていた寺尾市四郎が帰郷の後、川名焼を再興したと伝えられます。

「川名山製」「安政年製」の染付銘の作品が知られ、その大半は銅板転写によって絵付けが施されたものです。伝統的な染付の文様を銅板転写の技術を用いて再現した物や、これまでの染付磁器にはあまり見られない、異国情緒のある図柄を銅板転写で絵付けした作品もあります。極初期の「瀬戸から抗議を受ける前」の作品と思われる、人の手による呉須の絵付けが施された、「銅板転写ではない川名焼」もあり、非常に珍しいものです。

尾張国焼鉄道の旅、おしまい

いかがでしたでしょうか。新型コロナウィルスの蔓延による営業休止期間もあって、途中からやや駆け足気味になりましたが…。

「名古屋市内だけ」で、実にたくさんの焼き物が作られていたのです。(まだご紹介していないものもあります)

作られた経緯や、かかわった人物、時代背景や作品の特徴もそれぞれ違っており、ユニークで奥深き世界なのです。

しかもところどころでクロスオーバーしている焼き物もあるのが、尾張国焼の楽しさの一つだと言えます。

時系列でたどらず、あえて地下鉄路線で巡ると言うのも、見方が変わって面白いものです。一部こじつけ気味に鉄道駅と紐づけた窯もありますが…ご愛敬ということで…。

次は何しようかな…

本当はこのシリーズのあと、名美アートフェア2020の告知をするはずだったのですが…。

残念ながら新型コロナウィルス感染防止のため、開催自体が中止となってしまい、せっかくの展示企画が飛んでしまいました…。

1年間以上かけて、練りに練った「名美アートフェア史上初」の企画だったんですけどねぇ…。

不特定多数のお客様を相手にした、大規模な展示会などは今後しばらく開催できなくなるのでは…と危惧しています。

この先、数年間はこの厳しい状況が続くと覚悟しておいた方がいいのでしょう。

今後の営業の方針についても、いろいろ考えを改めなければならないと思うところもあります…。

なるべく月に1回以上は更新できるよう、情報発信は続けていきますので、よろしくお願いいたします。

尾張国焼鉄道の旅15:川名(川名焼)” に対して5件のコメントがあります。

  1. どんなべ より:

    初めまして。名古屋の江戸時代の焼物について勉強させて頂いておりありがとうございます。さて、家に「美山窯」と窯印のある手塩皿があります。原色陶磁器大辞典(淡交社)では寛政頃の焼物とありますが陶工などそれ以上は判りません。慶応3年に買い求めたと箱書きにあるのです。先祖は米倉町(伊倉町)で商人でしたので尾張の焼物と考えていますが。御教授いただけましたら幸いです。

    1. MasterMK より:

      はじめまして。コメントありがとうございます。

      >「美山窯」と窯印のある手塩皿
      原色陶磁器大辞典によると「美山」という銘は「御深井焼風の陶器」とありますが、皆目見当がつきません。お力になれず、申し訳ないです。

      個人的な見解を述べますと…仮に寛政(1789-1801)ごろの焼き物で陶工の銘が入るとすれば、「よっぽど立場のある陶工」と考えられます。御深井焼であれば、尾張藩の庇護下にある「御竃屋」がそれに当たるでしょうが…御竃屋が銘を入れることはもう少し後の時代になってからなので、御深井とはまた違う窯ではないかと思います。また「美山窯」だと、原色陶磁器大辞典の「美山」とは違うモノかな?という気もいたします。正直なところ、作品のそのモノを見ていないと殆ど何も言えないのです…すみません…(´Д`;) 

  2. どんなべ より:

    ありがとうございました。窯印は「美山」でした。釉薬は灰青色で「御深井焼風」ではあります。見込は龍の図柄です。また、「原色陶器大辞典(淡交社)」でした。すみません。

  3. 久野輝夫 より:

    川名焼、最近に手に入れました。
    元々、いりなかの聖霊病院の裏側で焼かれていたもの。
    これは50年ほど前には窯跡がありました。
    現在は宅地となっていますが。
    さて、この川名焼の後流がフジミヤキ、現在の御器所の西友、名古屋牛乳の付近に昭和時代には残ってました。
    フジミヤキは、タイル製造に専科して時代の代わりとしてなくなりました。
    僕の高祖父は川名焼の関係者、水野氏です。
    戦前、戦後に祖父は多くの川名焼を散失したとか、母からは蔵にたくさんの焼き物があったとは聞いています。

    1. MasterMK より:

      コメントありがとうございます。

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