商品陳列館・跡地はどこだ?

勉強部屋をそっちのけにして、興味の向かうままいろいろ調べていたら、いつの間にやら8月が終わっておりました。

というわけで、遅ればせながら…「夏の自由研究」の発表です。

あんまり美術とか茶道とか関係ないことですが、郷土史にかかわってくる内容です。

きっかけは龍影閣

7月に熱田神宮でお茶会があり、僕はそのお手伝いで「龍影閣」に初めて行きました。コロナ禍でしばらく中断していた熱田神宮の月釜。密にならぬよう、時間を区切って、人数も制限して、さらに広い空間で距離をとれるように、この広い龍影閣が待合として使われたのです。

この龍影閣は1878年(明治11年)に、総見寺の境内に建設された博物館の評定所として建てられたものです。開設時に開催された「名古屋博覧会」に明治天皇が視察した際は、この建物の2階が休憩所として使われ、1910年(明治43年)に本館が建て直しになった際も、この建物は明治天皇の聖蹟として遺され「龍影閣」と命名されました。

1932年(昭和7年)の都市計画により、名古屋市西区の庄内公園内に移築され、一時県から個人へ管理が移って、1968年(昭和43年)に現在の熱田神宮へ寄贈・移築されました。

一人妙に浮かれる男

ここはねー、ぜひ一度来てみたかった場所なのです。

なぜなら…ここが例の「一樂會」が行われていた会場そのものだから。

別に明治天皇の聖蹟だからとか、そういうのは僕的にはどーでもよくて(笑)、違う意味での聖地みたいなものです。

庄内公園内に移築以降、荒廃がすさまじかったらしく…恐らく熱田神宮に移築された際に、かなりの補強と修繕がされていると思われます。とはいえ、過去の写真などと比較しても、建物の構造は大きく変わっておらず、外観は往時の雰囲気を残しつつ、今も現役で使われております。

内部は畳敷きであることは当時と変わらないと思いますが…もともと敷居にあったであろう襖はすべて取っ払われ、床の間もつぶされ、和室としては異形の大空間となっています…。和室の構造をなんとなくでも知っていれば、もともとの光景は想像しやすいので、大正時代に一樂會が行われていた様子を一人、思い浮かべておりました。我ながらキモイですね(苦笑)

どこにあったのか

この龍影閣がもともと付属していた、「愛知県商品陳列館」はどこにあったのか。

ほかの勉強部屋の投稿でも、「うちの近所にあったんですよ」とか言ってますが…。厳密にどこにあったのか、僕もぼんやりとしかイメージしておらず…。「門前町博物館」と言われていた時期もあるぐらいなので、なんとなーく「本町・門前町通り沿いじゃね?」ぐらいにしか思っていませんでした。

龍影閣のことをいろいろ調べているうちに、ある本を見つけて、その内容から「愛知県商品陳列館がどこにあったのか、厳密な推定が可能じゃないか?」という発見があり、そこからズブズブと調べ物の沼にはまっていったのです…。

その「ある本」というのが、「黙想の天地」という本

国会図書館デジタルコレクションの中にも入っており、ネット上でも閲覧が可能で、ホントたまたま偶然見つけました。

著者の沼波瓊音という人は、明治・大正期の国文学者・俳人で、名古屋の出身。この本はいわゆる「エッセー集」「随筆集」で、様々な事柄が著者の思うまま書き綴られており、このエッセーの中の一つに「猿面茶室」について綴った文章を発見したのです。

沼波瓊音が見た、猿面茶室

デジタルアーカイブを見に行けば誰でも見れるのですが…恐らく「デジタルデータは読むのが億劫だ」というお年寄り世代(主に僕の親父)がいるため、こちらで文字を起こした引用をしておきます。(誤字・脱字があるかもしれません、平にご容赦ください)

此間名古屋へ寄ったら、門前町の博物館が廃されて商品陳列館となり、それが今新築中だとの事を聞いて、ちと不平の気味もあって見に行って見た。成程盛に工事中で、館の横に新道も出来て、僕の舊馴染の博物館の俤(おもかげ)は無くなって仕舞った。柴田主事に面会して場内の案内をして貰う。東部の方の庭は流石に昔の儘(まま)であるが、今度廃された浪越公園の面白い石が沢山運ばれてて、これからこの石を配(あしら)って庭も少し造り直すとの事だ。主事は猿面茶席を見て下さいと云って導かれる。

この茶席は僕一度父に伴われて見た事がある。その記憶は殆ど前世の事のように残っている。この席が博物館に移されたのは明治十三年であるから、その時に一般に見る事を許されたので、その当時四歳であった僕も見るを得たのであろう。床柱の節が猿の眼に似て居た事は判然と頭に残ってる。それ以来博物館は屢(しばしば)見たが、この茶席は公衆の入るを禁じているので、其屋根を木立越しに見るばかりで、中に入るのは今度が二度目である。席に這入った時に、前世に還ったような、夢が現実に化したような変な心持がした。

抑も猿面茶席と申すは織田信長公清州在城の砌大に茶事を好まれて、京都から古田織部正重勝を招いて城中に建築させられたものである。床柱の上の方に節が二つ並んで居て、其間に凸(たかみ)があるので、一寸猿の顔に見える。豊太閤がまだ木下藤吉郎で、公に仕えて居た頃、この席で茶の湯の御馳走になった。公藤吉郎に戯れて「この柱を見候へ、汝が顔によく似たるは」といわれたそうな。夫から四十年あまり、世は驚くべく変遷した。信長は本能寺で没し、秀吉の天下となった。その秀吉も頓て没して家康の代となり、家康職を罷めて子秀忠の代となった。この間清州には織田信雄、福島正則、家康の子松平忠吉、家康の弟徳川義直が相継いで封ぜられた。され慶長は十五年、名古屋築城の時、この席は清州から移されて、名古屋城内に置かれた。世はさらに幾変遷を経たが茶席は依然として、信長時代の風流の迹を伝えていた。維新後に至って県の士族の刑部玄という人の所有になった。それを明治十三年一月に、有志相謀り古物保存の目的で、博物館へ寄付させて今日に至ったのである。

もと奈良春日に在って今上野の帝室博物館内に在る六窓庵の席と、大阪市松坂山一心寺の八ツ窓の席と、この猿面茶席とが日本三茶席と称せられている。四畳半で別に一畳半が付いている。京間であるから余程緩(ゆった)りしてる。柱は蝕み壁に隙が出来て中を歩くのも危うい程になってる。工事の響は盛に聞えてるが、ここにさす十月の日影は極めて穏である。閾の虫穴の中の塵まで見える。席に近き杉松楓などに信長時代の風が吹く。猿面の床柱の前に洋服の膝を折って座って見る。茶を思うに非ず、無常を観ずるに非ず、人格の永存を思うに非ず、唯恍然として心の遠い遠い所へ漂い郁を覚えた。

僕は茶の事はよく解らぬが、この席は、にじり口の反対の方に二畳の勝手がある。この勝手の工合が一つの特色だそうな。又にじり口の上の軒に長い庇(ひさし)が出ている。これが第二の特色であるげな。この席から石畳の道を伝って、これもここの一名物なる源懿卿の書斎松月斎に行けるようになっている。こういう名席はどうか保存法殊に防火の設備を確(しっか)りして、永く一史跡として、又茶道の一模範として残り得るようにしたいものである。

沼波瓊音 著「黙想の天地」より「猿面茶室」

まあ、このエッセー集が面白いかどうかは別として…この内容は非常に興味深い情報が詰まっています。

この「黙想の天地」が出版されたのは1910年(明治43年)なので、猿面を訪れたのはこれよりちょっと前ぐらいのイメージでしょうか。「門前町の博物館が廃されて商品陳列館となり、それが今新築中」という一文を見るに、まさに商品陳列館の建て直しの真っただ中ということですね。

そして何気ない一文ですが、とっても重要な「館の横に新道も出来て」という一文。これが愛知県商品陳列館があった場所を推定する、大きなカギになるのです。

さらに「日本三茶席」について言及しているのが面白いですねー。過去の道草で猿面茶席についていろいろ書いたときには、「待庵」「如庵」「猿面茶席」だったのかな?と想像していましたが、どうやら違ったようですね!

明治終わりごろ、有名だった日本の茶席

ちょっと本筋からずれちゃいますが、これも面白いので調べてみました。

エッセーの中で言及している「六窓庵」というのは、今も現存する茶席。「帝室博物館」とは、現在の国立東京博物館のことで、東博にあるお茶室です。また「八ツ窓の席」というのは、大阪・一心寺にかつてあった遠州好みの茶席ですが、こちらは空襲で焼けてしまい、今は残っていないそうです。

利休の遺構と伝わる待庵は、今でこそ国宝認定を受けていますが…この当時は農家の納屋として使われていたとか…?また如庵は東京の三井本邸に移築されて間もないタイミングで、あまりメジャーではなかったのでしょうか…。

エッセーの最後に「茶の事はよく解らぬ」と言いながらも、こうして「日本三茶席」のことに言及しているので、お茶をよく知らない一般大衆にも認識されていたのかな?と思うと、当時の認識がうかがい知れて、面白いですねー。

跡地はここじゃないか…?

さて本筋に戻ります。

何気なくエッセーに書かれた、「館の横に新道も出来て」という一文。

この本が 1910年(明治43年) も出版されたことを加味して、僕はこういう仮説を立てたのです。

「この年代(1910年)の前後に新しくできた道を探せば、そこが愛知県商品陳列館の場所だと推定できるのでは? 」

さらに資料を探し、古地図と照らし合わせながら、「精緻な聖地の場所」を解き明かしていきます。

夏の自由研究、史上初の前後編です…。

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