掘り起こそう、一樂會
新年あけましておめでとうございます。今年も前田壽仙堂をよろしくお願いいたします。
さて新年一発目の勉強部屋。
今後の指針(大きな枠組み)らしきものが定まってきましたよ。
貴重な資料
昨年の後半、「郷土の焼き物-豊楽焼」を勉強部屋で特集したところ、ある方から「一樂會誌、見たことあるのか?」とツッコミを頂きまして・・・。実はごく最近の展覧会の図録や、「をわりの花」や「国焼のしるべ」などの昭和頃の書物を元に調べただけで、原本を何一つ見たことがありませんでした。
「手に入れたから、見せてあげるよ」
エッΣ(゚Д゚;≡;゚д゚)?エエェッ
ホンモノですやん・・・。
そんな経緯で、貴重な資料をお借りできました。いやー、これがまたスゴイのです。如何に自分が浅瀬でチャプチャプやってたかって話ですよね~。
井の中の蛙大海を知らず。
されど空の深さ(青さ)を知る。
広さも深さも知らない僕は、まだまだ後ろ足も生えてないオタマジャクシといったところですかねぇ。(´Д` )~~
謎の組織「一樂會」
勉強部屋の端々で「一樂會誌二によると・・・」と、一次資料として登場していた「一樂會誌」とは?
大正の終わりごろ、名古屋(愛知県商品陳列館)で行われた美術品・茶道具の陳列会の目録です。美術品の写真はごく一部しか載っていませんが、彫銘や印影の拓本が資料として載せられています。
陳列会と聞くと、なんだか現在で言うところの美術館の「特別展」のような印象を受けますが、ちょっとニュアンスが違うでしょうね。所謂、サロンといった方が適切かもしれません。
どんなことが行われていたのか?まずこの初回の目録の緒言を引用させていただきます。
我が尾張の地は古来製陶を以て名あり 瀬戸に名工を出せるは原より然るべき所なれども 茶人雅客にして製作を試み 其の陶器の世に珍重せらるるもの少からず 中には其技妙域に達し 専門の工人をして後に瞠着たらしむるもの往々にしてこれあり 余等此種の陶器を蒐集し時々陳列会を開きて同志相共に鑑賞し 以て研究に資せんとせることとし 今回偶ま機を得 先ず 山本自敬軒 千村伯就 正木文京 井出退歩 杉山見心 五家の作品陳列会を開催せり 其五家を取れるは 年代稍々(少々)古く 作品比較的多からざるに依りてなり 爾後春秋二回を期し順次他の諸家に及ぼさんとす 茲(ここ)に出品目録を印刷するに方り 一言を題して本會の所期を告白す
大正癸亥仲夏 一樂會
読みやすいよう、スペースを開けてあります。
一樂會は毎回テーマを決めて(地元・尾張周辺にまつわるテーマで)古美術品を陳列し、古美術の顕彰・啓発を行っていたのですね。
古美術、なかでも地元にゆかりのある道具を蒐集した人たち(調べてみると、当時の有力な実業家たち)が集まる、交流の場・社交の場(=サロン)であったのだろうと推察します。
時は大正12年(1923)。ちょうど関東大震災の直前。
鈍翁こと、益田孝が名古屋に疎開してくる前の出来事。よく「鈍翁の疎開によって名古屋にも数寄者たちが育った」という言説を見聞きしますが、この一樂會の存在は「鈍翁が来る前から、すでにその芽は育ちつつあった」ということの証左だと思うんですよね。(一樂會誌を貸していただいた方も、そんなことを仰っていました)
これは後に第二回、第三回、第四回と続きます。
凄まじいラインナップ
第二回は初回のすぐ後、同じく大正12年10月に開催され、「尾張の楽焼」を軸にして、そのラインナップは以下の通り。
渡辺又日庵、永井春秋園、馬場一巣、梶玄及斎、飯田布袋堂、安藤百曲、吉田鹿助、廬山焼、豊助焼、笹島焼、萩山焼、正三焼、有我焼
ここに「豊助焼(豊楽焼)」がでてきますね。これが「一樂會誌二」というわけです。
そして第三回は翌年(大正13年)の5月。「尾張の茶人・茶陶」がテーマに据えられ、規模も拡大。
尾張の殿様(光友・斉朝・斉荘・義宜)、高須松平家(松平義建)、竹腰篷月、御深井焼、戸山楽々園焼、玄々斎、浦蓮也、柳生流々、高田太郎庵、川村曲全斎、宗知、蝸牛庵、秋輔、原田泥亀、爲足庵・日義、日潤、二階堂昇庵、今泉源内、朝倉自生庵、平尾数也(六代・七代)、正木惣三郎、正木伊織、岡谷二珪、間宮撫松、横山鈴翁、石橋蘿窓、久田耕甫、松尾宗二
「やりすぎ(笑)」
太郎庵や曲全、斉荘、平尾数也などなど、すでに勉強部屋で取り上げた人たちもいますが…。こうしてラインナップを見ると、ほんの一部分なんだなーと、奥の深さに戸惑っちゃいますね。
間が空いて(この1年の空白期間、何が原因かは定かではありません)、第四回が開催されたのは大正15年6月。前回やりすぎちゃった反省なのか、「平沢九朗(初代・二代と周辺)」に絞ってます。しかし陳列された道具の点数は増え、さらに平沢九朗にまつわる会記がずらっとまとめてあり、これはこれで、スゴイ濃密な回です。
第四回の目録の最後には、「さらに今後、こんなのをやりたい」と意欲満々に、予告編のようなリストが・・・。
大野・西村治兵衛 治郎左衛門、濱嶋五兵衛清浄軒 道味、遠山微笑尼、清洲・早川清太夫 藤蔭翁、加島道周、瀧川一楽、氷室長翁、小寺如々庵 宗玄 省斎、松尾家代々、久田耕隆、箕田宗範、久田宗栄、久田清好、神谷別甫 西村田楽、津金庄蔵 乾斎城南坊、久野助九郎 九幡霜舎 廉卿 九兀 永日庵 正員 其律、水谷八右衛門 好山、称善、小澤列根鎭監、爰清庵、井上士朗、横井金谷、深田香實、岡谷市左衛門 無功庵巴洲 全忠、高讃寺茲明蓬生庵、白木屋武右衛門、不二山人 静遠居信天 風月雙、半介・・・
この一樂會誌四の巻末部分を見て、圧倒されてしまいました…。知らない人が見たら意味不明な文字の羅列にしか見えないんでしょうねー。
海の広さもさることながら、その深さもヤバイ。オタマジャクシの僕は軽くチビっちゃいます。
これは相当深刻なマニアたちの集まりですよ。(笑)
(一樂會誌の中にあった一樂會の印。デジタル処理で多少きれいにしてみました)
時代の波に翻弄され、道半ばで頓挫?
次回予告までしているのに、なぜか「一樂會誌」は一~四までしかありません。時代背景を鑑みるに、このような集まりがもうできなくなってしまったのでしょうね。
第一次世界大戦の好景気から一転、輸出不振に追い打ちをかける関東大震災、大正天皇崩御、そして昭和金融恐慌の時代。
うーむ、推して知るべしって感じですか。
啓蒙活動の指針
何となく漠然と始めたこの「勉強部屋」でしたが、ここにきて一つの指針のようなものができた気がします。
「よっしゃこれ全部やろう」
100年近く昔の人たちが集い、楽しんでいたこの郷土美術の世界。ただ何となく、手当たり次第にやってきたのですが、この一樂會誌に載ってるもの全部を勉強すりゃ、なんか見えてくるかもしれない。
第一回が行われたのが大正12年(1923)。あと5年で100周年の節目の年じゃないですか。
それまでに全部を網羅できるかは…ちょっと自信ないですけど。やれるだけ、やってみようと思います。