郷土の焼き物-豊楽焼・七代、八代

2017年もいよいよあと数日。そして「豊楽焼」もいよいよ最終回です。

年賀状も刷れたし、年末のバタバタの中、なんとか間に合わせました。( -。-) =3

江戸後期~幕末・明治維新を経て、近代まで名古屋の地で受け継がれてきた「豊楽焼」。この系統に連なる窯はなく、現在では途絶えています。

最終回は豊楽焼・最期の兄弟、七代と八代についてです。

七代・豊助(金彦)

六代豊助の長男・金彦は、明治8年(1875)に生まれます。

展覧会への出品や、輸出の画策など、製陶事業を拡大していった六代のもとで成長。作陶の技術を父より学び、作品を残しています。

中でも七代作として知られる「那古野焼」と呼ばれた陶器があります。これは大正初年頃、那古野神社で毎年行われていた観桜会に訪れた茶人や画家など、名士たちが七代の製作した茶器に詩歌や絵を描いたもの。様々な形の「那古野焼」の印銘が知られています。

しかし大正4年(1915)、不幸にも七代は40歳の若さで父(六代)よりも先にこの世を去ってしまいます。それゆえに作品数も少なく、七代と特定できる作品は「那古野焼」以外にはよくわかっていません。

八代・豊助(春造)

七代豊助が亡くなり、その跡を継いだのは弟・春造でした。

恐らく兄とともに、父のもとで作陶に携わっていたのでしょう。そして何らかの理由で八代を継承(恐らく、兄が病に伏せた段階で八代を継承したのではないか…)。

六代豊助が大正6年に長男の後を追うように亡くなり、豊楽焼を託された八代でしたが、七代が亡くなって10年後の大正14年、八代豊助も40を迎える前に亡くなってしまい、ここで豊楽焼の命脈が途絶えてしまうのです。

七代・八代が継承された頃の具体的な流れ・事象は詳しく伝わっていません。八代は草書体「豊楽」の印銘と「八代 豊助」の署名がある共箱が存在します。

最期の豊楽

八代は若くして代を継ぎ、しかも先代たちが相次いで亡くなってしまってしまい、かなり大変な状況下での製作だったと思われます。

残された作品を見ても、ほとんどが楽茶碗

「他に需要がない」というよりも、「まだこれぐらいしか作れなかった」と見るべきでしょうか…。

恐らく20代~30代の若いころの作品で、丁寧に作られた茶碗が多いです。八代の特色・個性といったものが作品に投影される前に亡くなってしまったのが、大変惜しまれます。こういっちゃ何ですが、至って平凡な楽茶碗が多いのです。

コスト的な問題があったのか、(豊楽だけの話ではなく、塗師の面でも)技術の継承がなされなかったのか、それとも需要が廃れてしまったのかはわかりませんが、代名詞の木具写も見当たりません。

なんだか寂しい感じですけど…諸行無常、終わるときとは、こういうものかもしれませんね。

一応、ここまでが豊楽焼の系統なので、最後まできちっとやろうと思ってまとめました。

復興・木具写?

そして付録。今後はどうなるか、まだわからない、未来のお話。

名古屋で現在も楽焼を制作している、八事窯・中村道年(五代)さんが、塗師の前端春斎さんとコラボして、木具写の棗を制作しています。

作品紹介 - (公式)八事窯へようこそ

系統としては違えども、同じく名古屋で楽焼を制作していた豊楽焼の歴史・想いを引き継ぎ、次の世に伝えていこうという気概に満ちたこの作品。いつしか「復興・木具写」と呼ばれる日がくるのかも…?

郷土の焼き物「豊楽焼」編、これにておしまい。

ダラダラーっと長い期間かけてやってたので、なんともブツ切れ感がありますが…いずれまとめページ・特集ページを制作しようと思っています。

次はナニしましょうねー。いろいろ、このブログのスタイルを模索中で、ふわふわ頭に浮かぶものはあれど、なかなか考えがまとまらないッス・・・。

まあ何するにしても、長く続けていきたいので、焦らずのんびり…。(´Д`)

そして年内はこれが最後の更新ですかね…。

今年4月から始まった、新しいホームページ・およびブログをご覧いただき、ありがとうございました。拙筆、遅筆でお恥ずかしい限りですが…めげずに来年も引き続き頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。<(_ _)>

もし、道具に興味を抱かれたら、気軽に前田壽仙堂の店舗にも遊びに来てくださいね。

それでは、よいお年を。(´・∀・`)

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