矢場町を歩こう・その4

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矢場町ブラブラ。まだまだ歩きます。

矢場町のルーツ

前回の細い曲がりくねった旧道を抜けた先は、ちょうど「三輪神社」の裏手に出ます。

こちらが正面ですね。

実はちゃんと参拝したことがなかった、三輪神社。まあ、中学生の頃って、地元の歴史に大して興味は持ってなかったので…。多分、神社のわきを通ったことがあっても「公園か何か」ぐらいにしか、当時は認識していなかったはず。お恥ずかしいやら、申し訳ないやら…。

まずはキチンとご挨拶。

境内の中を進むと、御神木にデッカい弓矢がぶっさ刺さっとる… (‘A`) ナニコレ

奥へ進むと…。

(‘A`) エッ お墓にも矢が刺さってる???なんじゃこりゃ。

…すぐお隣に立て看板がありました。

旧・矢場跡

時は太平の世が訪れた江戸時代…武士たちの間で流行した、ある競技がありました。

「通し矢

現在でも京都・三十三間堂で「大的大会」として行われる行事のルーツといわれています。

この通し矢、「一昼夜の間に何本の矢を射とおせるか」を競った「大矢数」が有名になり、次第に藩の庇護を受けた射手たちが競い合うようになります。

まあ、今でいうところの弓道の全国大会みたいなものでしょうか。地域の期待を背負って競うところなんか、現代版の甲子園みたいな位置づけもありそうな…。

ただまあ、「実用的ではない、ただの見世物」とも評されてもいたみたいで、一種のエクストリームスポーツのような要素も含まれるかもしれませんねー(笑)

そんな「通し矢」のため、尾張藩も優秀な射手を育成すべく、ブルペン…ならぬ、弓の修練場「矢場」を整備しました。

それが文化8年(1807)まで、この三輪神社の境内にあったと言われています。

「尾張誌」のなかにも「町の東側に矢場があったのでこの町名になった」ということが書いてありましたね。

古地図を見てもその位置関係は正しいとわかります。

ただまあ、現在はご覧の様子。宅地が広がり、どんな様子だったかをうかがい知れるものは何もありません…。

「もうちょっと、風情のある場所ならなー」と、勿体無く思います。

現在の「矢場」といえば…

かつて矢場があった三輪神社の北側裏手に位置するのが…ご存じ「矢場とん」ですー。

いやぁ…すっかりデカくなりましたね。ブーちゃん。

まさかアニメ化されるとはねぇ…そんなに人気があるとは、地元民なのにまるで知りませんでした。

僕は超地元民のくせに、実は数えるほどしか行ったことがありません。(キレイなビルになる前に…1、2回かな?)

名古屋を飛び出し、西へ東へ出店してる矢場とんさん…。

「名古屋といえば味噌カツ、味噌カツといえば矢場とん」という、ブランディング戦略が見事ハマりましたね。

この角地も最近、矢場とんが取得して、ブーちゃんオブジェの広場として新しくなりました。

目下、「矢場」の名前を全国区に押し上げている存在なのは間違いありません。がんばれ、ブーちゃん。

が…ぶっちゃけ、脂がクドくってあんまり好みじゃないんだよなぁ…ホント、ゴメンやけど…旨い不味いとかじゃなく、これは好みの問題。

現在の矢場町交差点

ブラブラ歩きながら、また若宮大通まで戻ってきました。大津通と交わるここが、現在の矢場町交差点。

大須三丁目側から見た交差点。コロナの影響で比較的人がまばらです。

反対側、栄三丁目サイドに来ました(やっぱり、小走りで)

謎の橋

白いアーチ橋はその名も「矢場ブリッジ」。…特に意味もなく、しいて言うなら「矢場橋」だと「ば」が被るとか、そんな理由でただ横文字にしたかったんだろうなぁ…うーん…ダサい

けどまあ、それぐらいだったらまだ可愛げがあるってもんですが、名古屋人はそれだけじゃ終わらない。

なんかぱっと見、矢場町の観光スポットづらしてますが、ちっともそんなことはないです。

そもそもなぜあるのか、名古屋の人たちの間でも、あまりよく分かっていない橋です。

もともと川があったわけではありません。なぜ橋を架けたのでしょうか…。大津通(両側2車線)を東西に横断するための橋…は、別に必要ありません。ほんの少し歩けば横断歩道があります(大須三丁目側の写真参照)。一体、遠回りして誰が渡るんでしょうか…。交通量の多い大きな道路では、過去に児童の交通事故があったため、通学路として使うための歩道橋が作られた…というのは、僕の小学校の通学路で実際にありました(歩道橋が遠回りでも、児童が通学には使ってはいけない横断歩道があった)。もしそうだとしても、これほど凝った構造の橋にする意味は…?大津通はここから北に向かって緩やかにカーブします。南側には巨大な名古屋都市高速が走ってます。下から見ても、上から見ても、特に景観がいいとは、思えません…都市高速さえなければ、まだ絵になるのかもしれません。この橋、何のために、あるんでしょうか…。

僕は子供のころからずーっと不思議に思い続けていましたが、あらゆる点で合理的な答えは一向に出てこないので、いつしか考えるのを止めました。これが矢場町の子供たちに共通する成長プロセスだと思われます。

まあ今、改めて考えてみると、たぶん「大人の事情(お金)」ってやつなんだろうと察します…。きっと若かりし頃の「なぜ?どうして?」は、今の僕を支える力となってくれているのだと思い、前向きにこの橋を馬鹿にしてやろうと思います。

時よりね、名古屋にはこういう「謎な構造」が目に見える形で稀にあるんです。実にダサいと思います。(断言)

んー、どうして今回は地元をこんなDisらなきゃならんのだ… (´Д`;)

名古屋城が木造再建で揺れておりますが…くれぐれも、後世になって「どうして、こんなもの作ったんだろ?」って言われるようなものは、残さないでほしいものですねぇ。

家に帰るまでが散歩です

ここから北に行くと、パルコや松坂屋といった「ザ・繁華街」に入るわけですが…。

ここらはもう個人的には「矢場町ではない」ので、割愛します。(その1を参照

しかし江戸時代から残る寺社がまだ残っていますので、次回はその辺を回ります。

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