矢場町を歩こう・その1

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ひっさびさの「日々色々」カテゴリ。

新型コロナウィルスの感染拡大を受け、愛知県でも独自の緊急事態宣言が発出されました。

…とにかく「人と接しない」ということが、この難局を切り抜ける鍵であることは間違いないでしょう。

ここ数日でサカエ周辺はかなり人通りが減ったように思います。

年配~中年の方は特に減った気がします。

ウチの近所のお店も臨時休業をする店が増えましたしね。

地元を歩いてみよう

はー、ウチもお客さん来ませんし…暇だニャァ…なんかしよう。 (´-ω-`)

どうせならブログのネタになるような…。

電車に乗ったり、ショッピングをしたりしなければ、密集した空間は避けられる…。

この人が減ったタイミングで、ちょっと店舗の周りをブラブラ歩いてみました。

「地域密着型の美術商」を自称しながら、「自分が店を構える地域の事を何も知らない」というのは、さすがに格好がつかないので…

これを機に、いろいろ調べてみました。

それに現在進行中の勉強部屋「尾張国焼鉄道」の「名城線・矢場町駅」編の取材も兼ねてね…。

というわけけで…「今日は矢場町をブラ〇モリ!(Here we go.)」

僕の住む街

前田壽仙堂の住所は「名古屋市中区栄3-25-37」ですが…

この辺りはもともと「矢場町」と呼ばれた地域です。

その歴史は古く、江戸時代までさかのぼることができる由緒ある名前なんですよ。

僕が幼稚園のころに名古屋PARCOができ、中学生のころに矢場公園の北にあった廃校跡地にナディアパーク(LOFT)ができて以来、この周辺はニョキニョキと再開発が進み、今ではすっかり若者が闊歩するファッショナブルな街へと変貌を遂げました。高校時代はよく「あんなとこに人が住めるのか」と言われたものです。こういう時、どういう反応していいのか、今だに分からんのですけど…。

ファッションの専門店が多く集まり、デザインや音楽などの専門学校ができたり、おしゃれなイメージを前面にアピールするためか…最近では「栄ミナミ」という通称が定着しつつあるようです。地域のイベントなどでも重点的にこの通称を用いて、普及を促しているようですが…。

…まあー…正直、地元民としては、あまり感心しませんなぁ(苦笑)

だーって、ちょっと考えたら「あぁ、大阪の繁華街の『ミナミ』をパクったんだネ?」って、すぐ分かるやん!栄キタなんて誰も言わないのに…何ナン?そのセンス?ダサすぎ、カッコ悪!ホンっトにもぉー、こういところがいい加減っていうか、中途半端っていうか、名古屋人のダメなんとこだよなぁー(ブツブツブツブツ)…

…思わず心の声が…。

ともかく…由緒ある「矢場町」の名前を今後とも大事にしていきたい、というのが僕の偽らざる思いでございます。

矢場町はどこだ?

「ちなみに、矢場町ってどこからどこまでよ?」

これはもう厳密には決まっていません

そもそも行政区分としてその名がなく、過去でもその時代、その時期によって地域の名前は変遷していくので…。

あくまで僕の感覚では「大津通」より東側、「若宮大通」より北側、「本町通」より西側、「三蔵通」より南側…この中が「マエケン的・矢場町ゾーン」ですかねー。

地図にしてみたら、まんま「前田壽仙堂を中央にして、四方に同じだけ広げただけ」みたいになってた(笑)

パルコや松坂屋は含みません。なんというかネー、”別世界”感が強いのよ。地元のはずが、地元じゃないみたいな感じ。名古屋人はね、どこに住んでいようが、根っこは田舎者なんですよ!広小路も同様に、僕の中では別世界。やっぱ、由緒正しい尾張名古屋のメイン・ストリートですから。名古屋祭りを見に行くところ、ってイメージですね。

あと白川公園も矢場町じゃない。地図で見てみたら「矢場とん」も矢場町じゃないっすね。矢場町駅さえも矢場町じゃない…。

まあ、あくまでもこれは個人の感覚ですし、人によって「いや、それは違う」という意見はあって当然です。

旧・矢場町を探せ

さてここから、急に歴史文化のお話になります。

興味深いのはですね…

江戸時代の地誌によりますと、本来の矢場町はもう少し南の位置にあったようなのです。

矢場町

東の方にもと差矢場ありし故かく町名に呼べども、此町は総て寺社の地子なり。南側は万年寺・永昌院地子にて元禄八年、北側は政秀寺地子にて延宝六年、町家とおり、又、若宮裏、迦羅洲の社の南北は若宮の地子にて寛延四年町家とおり

これは「尾張誌」という、天保15年(1844年)に藩命によって編纂された尾張国の地誌です。

愛知県図書館のデジタルライブラリーで見ることができます。

今も残る寺院、神社の名前がありますね!ただ、文字情報だけでは、いまいちイメージが掴みづらいですな。

そこで名古屋市蓬左文庫アーカイブスで公開されている「東寺町の成立と発展」を見てみましょう。

これは名古屋にかつてあった、東側の寺町、南側の寺町について調査分析を行った報告書です。

江戸末期の寺院の敷地のイメージが、とってもわかりやすくまとめてある、大変便利な史料です。

さらに、地元の公園(矢場公園・裏門前公園)をブラブラ歩くと、過去に区画整備を行った時のビフォーアフターの地図のプレート発見!

この日、公園を訪れた人の中で、このプレートの存在に気付く人は、恐らく僕だけじゃないか…?ってぐらい、地味に目立ってませんでした。こういうのを現地で見つけた時は楽しいですよね~。

これらの地図を参考に、現在のマップにオーバーレイで過去の寺社の境内を重ねてみました。厳密にトレースしたわけではないので、微妙なズレはご容赦ください…。

現在の地図で示すとこんな感じ…。

いかに江戸時代の寺院の境内が広かったか、よーくわかりますね。

前田壽仙堂は白林寺さんの境内の中です。「お世話になっております!」

現在の矢場公園は、もともとは白林寺の境内、そして裏門前公園は永昌院の跡地にできたんですね。

これを見ても分かるように前田壽仙堂の前の道は、かなり古い道なんです。

一方通行1車線の道路にしては広い…しかし、対面通行1車線にしては狭い…微妙な大きさの道路です。(ここは実際は一方通行です)

んー、これが「いにしえの道」ですか…。

(そんなに古い道だとは全然思ってませんでした)

こんな感じで、「古い町の状況を頭に入れて、町をブラブラする」と、まったく今まで気に留めなかったものが違って見えて、かなり新鮮です。

次回はこの地図を基に、旧・矢場町をブラブラ歩きます。

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