尾張茶人名鑑:二階堂昇庵

何事も、前触れなく唐突に始まります。
「なんとかシリーズ」のようにやっていた勉強部屋は、中々まとまって文章を考える時間が取れず、アップすることをここ数年しなくなりましたが…。
スポット的に、いろいろな事を「1話完結」でやっておこうかと思います。
というのも、名美アートフェアで「一樂會」に関連付けた特集催事をここ数年やっていますが…今度の特集対象をまだ勉強部屋でやってなかったなー、と直前になって気づきまして…。
大慌てで記事を書いております。(苦笑)
パパっと作って、あとから編集、やり直すという感じで…
メチャんこやっつけ仕事でアップします。ご了承ください。
曲全・太郎庵と同世代の茶人
なんで最初の頃の「尾張の茶の湯」シリーズで取り上げてなかったんだろう…?てっきり、勉強部屋でやったつもりになっていました。
今回は二階堂昇庵(にかいどう しょうあん)という茶人をご紹介します。
この人も、あまり世に知られない「尾張のローカル茶人」のうちの一人ですが、結構古い世代の人で、世代としては過去に勉強部屋でご紹介した河村曲全斎、高田太郎庵たちとは、同世代です。彼らが教授寺で茶の湯の勉強していたのとは、またちょっと違う流れをくむ茶人ゆえ、紹介を忘れておりました。
我が庵は 大須の南 しかぞすむ…
二階堂昇庵(升庵)は、もともと美濃の出身といわれておりますが、名字など詳しい来歴までは分かっていません。
名古屋市史人物編によると、「曰く、幕府の士(さむらい)某(なにがし)の次男なりと。医を以て業となす。京都に在りし時、天脈を拝診して験あり。法橋を賜る。」とあります。
そして諸国を偏歴したのち、尾張の大須・寶生院(大須観音)の裏門の南に隠棲したと伝わります。茶の湯は初め、町田秋波、杉木普斎、松尾宗二らについて学び、後に原叟に従ったようです。
「我が庵は 大須の南 しかぞすむ 世をうらみちと 人はいうなり」
という、狂歌を読んだとも伝わります。
百人一首でも有名な、喜撰法師の読んだ「我が庵は 都のたつみ しかぞすむ 世を宇治山と 人はいふなり」のパロディ狂歌ですね。知ってる人なら、一度は自分でモジって戯れたくなる和歌ですよね。僕なら…「わが家は 矢場町いぬい ビルが建つ 世を見下しと 人はいふなり」…なんちゃって。
「大須の南 しかぞすむ」の狂歌だけでなく、このほかにも「けふの月 大須の裏に 捨ててあり」という俳句を読んだなど、面白エピソードが伝わる昇庵は、さぞかしユーモアのある「奇人」だったのだと思われます。
一樂會では、わずか数点の出陳ですが、一樂會誌巻末の解説文はそこそこのボリュームが割かれており、その言を借りれば…
「昇庵が貧の獨言といへる一文あり。頗る其意を見るべきものなれば、左に之を掲ぐ」と、『貧の獨言(ひとりごと)』を尾張畸人伝から引用掲載しています。
この文章もなかなかにユーモアあふれた文章で、大正時代の一樂會のメンバーたちが面白がっていた様子がうかがえます。
『貧の獨言』は上述の尾張畸人伝で読めます。「なごやコレクション」にアクセスして、「名古屋市史編纂資料 和装本」の中にあります。気になる人はそこで読んでください。活字本ではないのですが、比較的読みやすいはず…ぶっちゃけ、文字起こしが面倒なのです…。
尾張畸人伝にも記述がありますが…「茄子汁 冷やして喰へば 極楽の 百味に替て 命をしさよ」というのが、辞世の狂歌として伝わります。ナスビがとにかく好物だったのでしょうが…この死の間際まで戯けていた、滑稽味がたまりませんね。
殆ど道具は残っていない
一樂會の開催された当時でさえ、ゆかりの道具は極めて珍しいモノだったと想像します。茶杓、茶碗、花入…など。
門弟が沢山いた曲全や、狩野派の絵の技術を体得していた太郎庵と違い、モノとして後世に残りにくい性質だったのは想像がつきます。
ただ大橋遅松の著した「尾州千家茶道之記」にも二階堂昇庵の言及があり
「老年に自己を立てて一流の異議をなす。然れども世人よく知って生涯茶名高く大幸なり。」
と評されていることから、その当時(江戸中期)でも、この茶人の事を知っている人が多くいたのだと思われ、ひとかどの茶人だったのでしょう。
宝暦六年7月に没し、享年八十才の長寿でした。つまり逆算すると延宝3年(1675)の生まれ。曲全の4つ年上で、同世代です。
町田秋波、原叟について茶を学んだことから、曲全や太郎庵とのクロスオーバーがあってもよさそうですが、そういった話は一切伝わっていません。
曲全は晩年は門弟が沢山いたことだし、太郎庵は古渡橋の庵に引きこもっていたでしょうから、恐らくそれぞれにお茶を楽しんでいたのでしょう。

