尾張茶人名鑑:岡田野水

過去の勉強部屋の《書き直し》です。

ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。

岡田佐次右衛門

江戸中期の人で、通称を「佐次右衛門(佐左衛門)」、名を「幸胤」といい、大和町で呉服商「備前屋」を営んでいた豪商です。

名古屋の惣町代(町奉行と市民の間に立って、市政の運用を円滑にする役職)を勤めていたこともある、有力商人の一人です。

風流を好み、歌は梅月堂宣阿に学び、俳諧は松尾芭蕉の門下として高名で、「野水」は俳号。芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留したとき(1684)に自邸へ招き、また『冬の日』の歌仙興行に参加しています。

惣町代を退いたあとは「宜斎」と号し、茶の湯は初め中島正員(正貞)について宗和流を学んだが、後に上洛して原叟の門に移っています(この際、曲全、太郎庵なども共に原叟の門に移ったとされます)。

尾張町方茶道の黎明世代

比較すると分かりやすいので、同世代の尾張の茶人を列挙しますと…

  • 岡田野水(佐次右衛門)…明暦4年(1658)生まれ
  • 伊藤道幽(次郎左衛門)…寛文5年(1665)生まれ
  • 河村曲全(九兵衛)…延宝7年(1679)生まれ
  • 高田太郎庵(三郎左衛門)…天和3年(1683)生まれ

この中だと一番年上です。全員が名古屋城下の商家の旦那衆であり、惣町代を勤めた佐次右衛門は財力でも、家の格としても、彼らより上位に位置してたと考えられます。

『尾州千家茶道之記』では、曲全と太郎庵は野水に勧められて原叟の門へ移ったとされており、この先輩後輩の上下関係は少なからずあったように思います。

ただ、尾張で千家の茶を始めたのは年下の伊藤道幽が先だったとされ、どうやら道幽に触発されて野水も京都で稽古をつけてもらうようになった模様です。

この辺りの「なぜ宗和流から千家流にこぞって移ったのか?」という疑問については、『尾州千家茶道之記』のなかで一つの話がされていますが、どこまでが本当かは分かりません…。

千家流が尾張で増えたきっかけ

ともあれ、原叟の門下となった野水は、稽古をするために京へ上洛し、尾張と京を往復する生活をするわけですが…まあ、大変ですよね。

今みたいに新幹線に乗って50分で移動できれば、日帰りも余裕ですけどねー…江戸時代にそれは絶対無理。当時の移動手段としたら「駕籠」が想起されますが、これで尾張-京を移動するのは労力的にも金銭的にも、とてもとても庶民には現実的じゃないです(これで移動するのは大名)。となると、やはり徒歩なんです。

野水をはじめ、尾張の町方の富商たちは「ビジネス」も兼ねて、京-尾張を往復することはよくあったと思われます。わざわざ稽古の為だけに、京へ行くということもあったかもしれませんが…やはり徒歩というのはキツかったでしょう。

上に年代を列挙しましたが、野水はこの4人の中でも一番年上。何歳ごろから稽古を始めたかは不明ですが…歳を重ねるごとに京-尾張の往復はしんどくなっていったことでしょう。(原叟門に誘った曲全・太郎庵の2人は野水より20歳以上年下で、まだまだ元気でしょうけど…)

そこで野水は原叟にお願いを申し出るのです。「尾州千家茶道之記」に記述があります。

重ねて岡田佐左衛門が上京の時、原叟に申して云うに、私儀は年々上京することも自由にて、この如く御心易く御目にかかり候えども、ほかの茶友どもはそれも不自由にて、直に稽古も御目にかかりがたく、この儀を気の毒に存すれば、何とぞ御門人衆の内に尾州へ代理として下向できる人を遣わし、御指南をうけたく旨を申し入れれば、宗左の云うになるほどそれは尤もなることなり。然れども尾州は大藩にて茶道の諸流多しと聞く。懇ろの器量の者を遣わせねば益あるまじ。

「ワシも年取ったんもんでぇ、京までの足がシンドイでよぉ…まぁ宗匠、ちょぉっと名古屋まで、誰か遣わしたってちょお(今じゃ誰も話さない、コテコテの名古屋弁)」

…まさか、こんな不躾な事を言う訳がありませんよね~。そりゃ建前上は「京都までの往来が不自由な茶友も、千家の茶を学びたいので」と、言うでしょう。実際はどうだったかは知りませんが、こういう想像をするのも面白いです(笑)

理由はどうあれ…この要請に原叟も応え、町田秋波というベテラン門弟を尾張へ出張教授として派遣することになったのです。以降、京都から派遣された千家流の先生が尾張で出張稽古をしてくれたおかげで、尾張城下の町衆に千家流の茶人が増えていったことは想像に難くありません。

ちなみに…「千家流って?」

お茶の知識を少しは知っている人なら、ここまで読んで、一部気になる部分があるかもしれません…。

実は意図的に「表千家」というワードを使っていません。原叟(覚々斎)は表千家の6代目の家元です。今現在からすれば、「表千家流」という表記にするべきなのでしょうが……あえて、そうしていません。誤字脱字の多い当ブログですが…あえて「千家流」と書いています。

あくまで僕の個人的な考えだと断っておきますが、この時代は「表・裏・武者小路」という3つの千家は「家」としてはそれぞれ分かれていたでしょうが、「流儀」としては個別の流儀だったのか…ということに疑問を感じているのです。

というのも、江戸中期に書かれた「尾州千家茶道之記」には、「表千家」とか「裏千家」とか「武者小路千家」という記述はでてきません。宗左、宗室、宗守という、それぞれの家の当主(家元)の名前こそ出てきますが、いわゆる「流儀の名前」としては「千家流」という言葉だけ…ここに疑問を抱く余地があるのです。

すでにこの時代、3つそれぞれの家ごとに、紀州徳川家(表千家)、加賀前田家・伊予久松家(裏千家)、高松松平家(武者小路千家)の茶頭(指導者)として仕えていたことから、家としては独立しているのは明らかです。ただ、流儀としてはどうなのか?『七次式』の制定には、天然宗左(表千家7代・如心斎)と一燈宗室(裏千家8代・又玄斎)が相談し、堅叟宗守(武者小路千家7代・直斎)も関わっていると伝わります。このことからも、江戸中期ごろ、3つの千家は同じ「千利休の末裔」の家として、他にはない深い繋がりを持っており、流儀としては1つの「千家流」とまとめて呼ばれていたようにも思うのです。いつから3つの流派に分かれたか、までは分かりません。

「そもそも”流儀”って、何やねん?」という話に発展しそうなので、ほどほどの所で辞めておきますが…(このネタでいろいろ書きたいけど、なんか藪蛇になるような気がして、ビビっております…)。

ひょっとしたら「千家流」というのは、この時代の尾張周辺だけの独特な言い回しなのかもしれませんけどね。そこまで広く調べてはいないので、僕の思い違いの可能性も十分あるので、ご注意ください。

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