尾張茶人名鑑:中島正貞(正員)

過去の勉強部屋の《書き直し》です。
ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。
鉄屋正三郎
江戸中期の名古屋・京町の人。屋号は「鉄屋」、通称を「正三郎(庄三郎)」といい、名前は「正員」と呼ばれていますが、『名古屋の茶人大成』では「正貞」としております。
中島正貞の姓名は、筆写本(尾州千家茶道之記)の示す運筆は明らかに「正貞」と判読し、決して「正員」とするものではないものの、名古屋でこれほど重要かつ先駆的人物でありながら、彼の子孫のみならず素性から住居や墓地に至る一切のことが、今だ一端の解明も進まず、又裏付けとなる資料も掌中に認めないが、ともああれ「正貞」と表示するべきが妥当であり、かつ又この文字の方が適字と思料される故、復刻に際しての拠るべき所を筆写本に求め、その趣旨を逸脱しないよう配慮した次第であります。
という、日比野先生のご指摘に準じて、「中島正貞(正員)」と表記しております。
祖先は今川家の家老で、今川家滅亡後、町人となったと伝わります。上記にもあるように、この尾州千家茶道之記以外で、これといって中島正貞に言及の有る資料はなく、素性などは良く分かっていません。
『師伝正しき茶道のはじめ』
正貞は、茶の湯を学ぶために自ら発心して京都へ行き、金盛宗和の直弟子である、北野・松梅院の俊岳という僧侶から宗和流の茶を学びます。
「尾州千家茶道之記」によれば
常修院の宮親王(慈胤法親王)より金盛宗和公へ、茶の湯の御懇望にて指南の儀を御頼みがありしに、宗和公もさる人にて宮様への御指南に行き来するも容易ならざず身柄なれば、御返事に茶道御指南の事は直談ならずは叶うまじ。さればとて度々参り候の儀もなりがたく候えば、幸い松梅院の俊岳は多年私に稽古仕る者に候。彼は僧徒で度々召されて候事も安かるべく候。俊岳に委細を申し含め候間、この者を御心易く御召しになり、御相談遊ばされるべく確と申し上げる。さればとて俊岳を召して御相伝なりし。その節の事故右の鉄屋正貞も俊岳の弟子となって茶道を稽古したり。是ぞ名古屋において師伝正しき茶道のはじめなるべきか。
著者の大橋遅松は「今の千家茶道は往古よりかくありしと思わるべけれども、全く左にあらず。四~五十年前(1700代初期)までは、流儀も分明ならざる茶人が多かりしによりて、茶道もさまざまなりし(後略)」とも、巻頭で述べております。
尾張藩に仕える武士は脇に置いて…特に尾張の町方における茶の湯の展開として、この江戸中期までは余り盛んではなかった、茶をする人が居ても『流儀も分明ならざる茶人』だった、という事なのでしょう。そういう状況下で、「名古屋において師伝正しき茶道のはじめ」とされるのが、中島正貞とされているのです。
つまり町方で最初に広がったのが宗和流だったという事です。
中島正貞の元には、名古屋城下の富商・旦那衆たちが教えを受けるために集まり、岡田佐左エ門(野水)、伊藤次郎左衛門(道幽)、河村九兵衛(曲全斎)、高田太兵衛(太郎庵)など、みな初めは宗和流を学んでいたというのです。
遅松の「師伝正しき茶道」という表現は、著書の中に何回かでてきますし、「流儀も分明ならざる茶人」とは対照的な表現ですよね…。恐らく「師伝正しい」ということに深い意味・意義を感じていたのだと思います。尾張の町方で茶の湯が隆盛の兆しを見せた時に、中島正貞の元にこぞって集まっているのも、この「師伝正しい茶道」であることに強い価値を感じていたのでしょうか…。
なぜ宗和流は広がらなかったか
尾張町方で、茶の湯を習いたい旦那衆がこぞって集まったのもつかの間、暫くしてこの正貞の門から次々と別の流派へと移っていきます。
伊藤次郎左衛門(道幽)は千宗守(文叔)の下で千家の茶を学び、岡田佐左エ門(野水)は河村九兵衛(曲全斎)、高田太兵衛(太郎庵)たちを誘って、千宗左(原叟)の門に移ります。
この謎は未だに良く分かっておらず、「尾州千家茶道之記」に記載されている説がまことしやかに言われていますが…実際のところはどうだったのか…?
そもそも中島正貞の生没年が分かっていません。つまり「いつまで生きていたか」が分からない。分からないなりに、仮説を立てて考えるしかありません。
恐らく上記4人の旦那衆よりも年上だろうと想像し…彼らよりも先に没しているのでしょう。師が亡くなってしまったのであれば、茶の湯の稽古は出来ないですよね。茶の湯を続けるために、別の師を探すことになります。その結果として、富商の旦那たちは京都へ足を運ぶことになった…のではないでしょうか。これはあくまでも推測です。
やがて町田秋波が原叟の命を受けて尾張に派遣され、秋波歿後はさらに松尾宗二が派遣された、という流れを鑑みても「尾張町方に茶の湯の指導をできる人がいない」のは明らかです。
そもそもの話なのですが…この中島正貞には娘がいて、河村九兵衛(曲全)に嫁いでいます。つまり正貞は曲全の舅なんです。「尾州千家茶道之記」の中にも『川村九兵衛曲全斎は、まして鉄屋正貞が聟(むこ)なれば別して熱心に宗和流を稽古す』とあります。親戚にあたる人(嫁の父親)が、お茶の指導者として健在なのに…「お義父さん、悪いんだけど宗和流やめて千家で習うわ!」と、なりますかねえ…??曲全はそんな筋の通らない事はしないでしょ、と僕は思います…。
いろいろ陰謀論のような形で、江戸中期に尾張で宗和流が広がらなかった言説が今も言われていますが…極めて単純に「師伝正しきお茶の先生(宗和流)がいない、亡くなってしまった」というだけの話なのかもしれません…。あくまで推測の域を出ない話ではあるのですが。

