尾張茶人名鑑:高田太郎庵

過去の勉強部屋の《書き直し》です。

ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。

藪下屋三郎左衛門

高田太郎庵は通称「三郎左衛門(後に太兵衛)」、屋号は「藪下屋」。江戸中期の茶人です・

太郎庵のプロフィール、実は書籍によって書いてある内容に違いがあり…

  • 「七間町の薮下屋。」…『尾州千家茶道之記』(安永3年-1774)
  • 「住吉町に住し、薮下屋太兵衛といった。呉服商である。」…『尾張の茶道:曲全斎と太郎庵』(昭和47年-1972)
  • 「家は代々藪下屋と称する飼馬を業とした。(生歿地:住吉町)」…『愛知画家名鑑』(平成9年-1997)
  • 「寛永年中(1624-43)から四代居住している住吉町で生まれた。家業は質屋で薮下屋三郎左衛門(後に太兵衛)と称し」…『名古屋の史跡と文化財』(平成10年-1998)

といった感じ。

全部、同じ人物を紹介しているのに、地名・仕事がバラバラ…。なんでこんなことになってんだー???

『尾州千家茶道之記』がぶっちぎりで古い資料ですが…当時の七間町とすれば…現在の丸の内3丁目~錦3丁目の南北の道沿いの町。住吉町(現在の栄3丁目)とは明確に町が違います。他3つが住吉町で生まれたと言及しており、恐らく「宅地」と「店舗」がそれぞれ別々にあったのかと思われます。店は七間町、お家は住吉町。名古屋市史人物編にも「住吉町に住し」とあるし、まあこの理解でいいのでしょう…ここまでは、まだ強引に解釈できます。

問題はお仕事。『尾州千家茶道之記』や『名古屋市史人物編』には言及がありません。『尾張の茶道』『愛知画家名鑑』『名古屋の史跡と文化財』で、全部違っています…。

「呉服商」「質屋」はまだ仕事としてわかるけど、「飼馬」って…わからん。(誰か知ってる人がいたら教えてほしい…)

一部には目を瞑って、想像力をたくましく働かせれば…恐らく「金融業に類する事業」だったのだろうと推察します。もともとの家業が呉服屋であれ、質屋であれ…それらを兼業することは恐らく可能です。呉服商で築いた資産を元手に質屋を兼ねたか、あるいは質屋が隆盛した江戸中期から呉服も併せて商うようになったのか、それは定かではありません。当時、質に入れるものは呉服が中心、さらに質屋が隆盛した元禄以降にちょうど当てはまるため、その可能性を感じます。他でもない「越後屋呉服店(のちの三越)」のルーツが、酒・味噌を商うかたわらで始めた質屋業がルーツの呉服店ですからねぇ…。越後屋ほどでは無いとしても、太郎庵の生家もそういう家業だったのか…と、想像します。

狩野派の画風

20歳ごろから京に上り、狩野常信の門下として画を学んでおり、画号として「朴黄狐」「源良斎」などが知られ、掛軸は比較的多く伝世しております。

狩野派の絵を学んだだけあって、人物画の独特の存在感・眼の鋭さ、富士山の典型的な描き方など、基礎をきちんと学んでいる様子が見て取れます。

宝永6年(1709)には、師と共に紫宸殿賢聖の障子を描いたり、尾張に戻ってからは藩命を受けて江戸・市ヶ谷屋敷の屏障を描いたととも伝わります。本職の絵師ではないものの、相当に絵の上手さを評価されていたのだと思われます。

「太郎庵」の語源

茶の湯は初め、河村曲全らとともに、中島正貞(正員)について宗和流を学んでいましたが、後に原叟の門に移っています。

茶人としてはもともと「太郎庵」とは名乗っておらず、別に「草結庵(叢結庵)」という庵号を持っていましたが、後にこの庵号は茶友(若山帰入)に譲渡しています。

享保6年(1721)に江岑の50回忌追善の茶会が催され、この茶会で原叟の手造黒茶碗 銘「鈍太郎」が使われました。当日の興趣を一段と高めたので、茶会の後に籤引きを行うことになったところ、見事に1等の鈍太郎を引き当て、これを大いに喜んで師の原叟から「太郎庵」の号を受け、これ以降から「高田太郎庵」と称するようになったのです。

ちなみに…

原叟手造黒茶碗「鈍太郎」は太郎庵没後、様々な茶人たちの手に渡り、明治期には三井物産の益田孝(ますだ たかし)の元に収まります。この茶碗を入手し、鈍太郎に因んで「益田鈍翁(どんのう)」と名乗ったことは有名な話です。

太郎庵の晩年

さらにこの後、原叟門から久田宗也(不及斎)の門に移って、真台子の皆伝を受けています。

原叟門から不及斎の門へ移った経緯は、『尾州千家茶道之記』に記載があり、過去の記事でも解説しているので、気になる方は古い記事も読んでみてください。

晩年は古渡橋の南に隠棲し、剃髪して「唯念居士」と改め、閑居の地から20数年を一歩も門外に出なかったと伝わります。

『世と交わりを断って独り茶の湯を楽しむ。一世の偉人にして世に広く知られたものなり。(尾州千家茶道之記)』とあるように、晩年は茶三昧だったようで、太郎庵の旧蔵と伝わる道具もいくつか伝世しております。

上述の鈍太郎茶碗は言わずもがなですが、それと一緒に使うのにふさわしい道具を揃えていたはずでしょうからね。

余談…「太郎庵旧蔵って?」

「髙(はしごだか)」の貼紙がある道具は『俗に太郎庵旧蔵』とされています。が…その根拠は良く分かっていません。遠州蔵帳や雲州蔵帳のような所蔵品目録や、明治大正期のような売立目録があるわけでもないので、「本当に旧蔵なのか?」という裏付けは難しいです。身も蓋も無い話をすれば、この紙を張り替えたり、あるいは捏造してしまえば、関係の無い道具を『太郎庵旧蔵』と装うことも出来てしまう…そういうシロモノ…。
かといって全部が全部疑わしい、という訳でもなく…ある程度「恐らく、そうだろう」ぐらいの確度で信用されている話ではあります。嘘というにも、本当というにも…どちらにしても、それを信じるに値する証拠が無い……この業界では非常によくある「ファジー(あいまい)な話」です。
これはまあ…太郎庵に限った話ではなく、同様の伝来品(蔵札、貼紙)にも同じことが言えちゃうんですけどね。伝来っちゅうのは、あくまで参考程度に…ね。

椿の品種「太郎庵」

椿の品種で『太郎庵』という椿があり、これが現在でも床を彩る茶花としてよく用いられ、特に名古屋周辺の茶人たちの間ではかなりの知名度があります。

椿には白、赤などいくつかの色の種類がありますが、桃色椿の代表的な品種が太郎庵椿です。淡いピンクの花弁が慎ましく咲く姿は実に美しく、これを愛好したのが高田太郎庵であり、そこからこの椿の品種の名前がついているのです。熱田神宮の境内には樹齢300年を超える太郎庵椿の原木があり、長い年月を経て地元の茶人たちに愛され続けています。(古渡に隠棲した太郎庵も、ここまで椿を取りに来てたのかな…?)

またこの他にも『関戸太郎庵』という「太郎庵の実生(椿の品種は接ぎ木で増やすが、これは太郎庵の種子から発芽した)」と伝わる品種もあり、こちらは名古屋の豪商・関戸家に伝来した椿の品種。現在は犬山市の常満寺に古木が伝わり、原種の太郎庵とよく似た淡紅の花を咲かせ、抱え気味の筒状に咲く姿が美しい椿で、こちらも茶花としてよく用いられる椿です。

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