尾張茶人名鑑:伊藤道幽

過去の勉強部屋の《書き直し》です。

ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。

伊藤次郎左衛門

伊藤次郎左衛門という名前は、江戸時代から続く名古屋の商家「いとう呉服店(伊藤次郎左衛門家)」の当主が代々継承してきた名跡。そして、いとう呉服店は現在の「松坂屋」の前身であります。

「道幽」は、この伊藤家の四代目・次郎左衛門の号です。当時はまだ「松坂屋」でもなく、呉服小間物問屋・伊藤屋でした(※1768年に江戸・上野の「松坂屋」を買収したことで「松坂屋」の屋号が使われるようになる)。

伊藤家3代・祐蔵(すけただ・すけくら)の妻は若くして亡くなり、その甥として生まれた萬四郎(幼名)は養子として伊藤家に迎えられ、後妻と祐蔵との間に生まれた子供も夭折してしまったため、延宝8年16歳にして伊藤家の家督を相続、4代・祐政(すけまさ)を名乗ります。

『尾州における千家茶道の始めなり』

尾張の商家・旦那衆たちの間で茶の湯が流行の兆しを見せたころ、次郎左衛門も宗和流の中島正貞(正員)について稽古をしていたそうです。

「尾州千家茶道之記」によると…

有楽流の流儀にては、中島正貞、野村宗二、岡田佐左エ門などが下に立つ事を嫌い、ひそかに宇治屋三郎左衛門に、其の事を相談す。伊藤次郎左衛門を勧めて、今、千家に三家あって宗左・宗室・宗守と云う。この内にも宗守は当時市井に人気を博してしかも年長で又機転もよろしき立ち、三家の中で一番繁盛している。これを師家に御頼みあってしかるべきとて、始めて宗守の門人に伊藤次郎左衛門はなりたり。これが尾州における千家茶道の始めなり。

どうやら有楽流の人たちの間で「町方で宗和流が流布するのを良しとしない」「町人たちが武家茶道を学び、武士がその下に見られるのを嫌がる」というような考えがあったとか…。現代の感覚からすると、よく理解できないかも知れませんが、武士たち(有楽流)にはそういうプライドみたいなのがあったのでしょう。(個人的にはこれを懐疑的に見ていますが…)

次郎左衛門(道幽)は「気性、豁達(心が広く、小さな物事にこだわらない)」と評されていることからも、素直に勧めに応じて宗守の門に移ったようです。呉服商という仕事柄、京へは度々上洛する次郎左衛門だったこともあり、そのたびに宗守に稽古をつけてもらい、名古屋に帰ってきては千家流の点前を茶友たちに披露して、評判になっていたようです。

宗守とは、千宗守(=武者小路千家の家元)であり、「尾州千家茶道之記」には「何代の宗守か?」「いつ入門したのか?」までは書かれていません。伊藤道幽の生没年と、歴代の武者小路千家の家元の生没年を比較すると、恐らくこの宗守は2世・文叔宗守と考えられます。

※詳しい考察は過去の記事を参照

その後の伊藤家

祐政(道幽)は享保2年(1717)に家督を長男(祐寿)に譲ります。

祐寿は蘭兮(らんけい)と号し、茶の湯を嗜まなかったと「尾州千家茶道之記」には記述があります。文化人というより、ビジネスマンとして優秀だった5代次郎左衛門は、家業のいとう呉服店を「呉服小間物問屋」から「呉服太物商」へと業態転換を図った人として知られます。富裕層向けの「呉服(=絹織物)」だけでなく、「太物(木綿・麻)」などの庶民向けの小売も始め、これがさらに事業を大きくしたのです。

ただ、跡付ぎには恵まれず、実子(6~8代)は相次いで夭折、養子に迎えた甥の9代までも若くして亡くなってしまいます。一時的に番頭の助けを借りながら6代の妻・未亡人の宇多が家督を守り、養子に迎えた11代の祐恵が家業を盛り立て、上野の松坂屋を居抜きで買収し、江戸へ進出を果たすことになるのです。察するに…お茶を嗜んでる場合じゃないですよねぇ。

祐恵は隠居後、京都に住み、そこで松尾宗五(松尾流2代・翫古斎)との知遇を得て、以降は松尾家とのお付き合いが始まるわけです。

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