尾張の茶の湯NEXT01:千村伯就
勉強部屋新シリーズの始まりです。
ちょうど、瀬戸染付の展覧会のご紹介をしたので…「瀬戸染付」について勉強するのが最もタイムリーなのでしょうが…。
意外にもこれをスルー(苦笑)
続・郷土の茶人を勉強しよう
御深井焼、尾張国焼鉄道と…焼き物関連が続き…少し、食傷気味ですよね。(俺が飽きた)
なのでまた「郷土の人物」を掘り下げて(時代が若くなるので「掘り上げて」?)いこうと思います。
かつて「尾州千家茶道之記」を基に、尾張の茶人たちをご紹介しましたが、その続きです。
町方茶道が活況を呈し、名古屋にも「茶人」という人種が出現し、大橋遅松は「遺忘の為に少々書き記しおけるを今ここに記す。」と、次世代の人に尾張の茶の湯の歴史を託して、その後の尾張には、どんな茶人がいたのか?
尾張藩が「茶の湯禁制の御触れを出す」ほど、活況を呈した「尾張の茶の湯」。
次世代(江戸後期)の尾張の茶人を探った、勉強部屋「尾張の茶の湯NEXT」シリーズ始まり、はじまり~。
世代感覚のおさらい
3年前の勉強部屋なので、ちょっと振り返ってみると…江戸中期に続々と表れた町方の尾張の茶人はこんな感じ。
前はね、パソコンで年表作ってたのですが…今はこんな便利なサービスがあるんですね…。
メチャクチャ☆簡単…ナニコレすごい。
今での苦労を思い出し、アレは何だったのかと…。(‘A`)
閑話休題…
大体、17世紀後半~18世紀初頭にかけての話でしたね。
時代の感覚としては、尾張の町方商人層も財力を持ち、文芸・学問・芸術の著しい発展を見た時代。京・大阪に遅れつつも、尾張名古屋が活況を呈した時代。
尾張徳川家の藩主でいうと、六代・継友~七代・宗春~八代・宗勝の治世。
千家茶道の世界では、表千家の原叟・如心斎、裏千家の一燈、武者小路千家の文叔・真伯が活躍した世代に当たります。尾張には表千家の町田秋波、松尾宗二が京から派遣され、尾張に「師伝の茶の湯」が伝わるようになった時代です。
尾州千家茶道之記にある手掛かり
「尾州千家茶道之記」は大橋遅松によってまとめられた資料でありますが…。
「一個人によって編纂された史料ゆえに、その信頼性がやや乏しい」というのは、前回の尾張の茶の湯のまとめで述べましたが…。個人的に、この本の内容は「大方あっているだろう」という前提で、この本の内容を根拠として、また人物を掘り下げてみようと思います。
この中には、実にたくさんの「茶人」が紹介されており、中には独特な表現がされている人物もチラホラと見られます。
「曲全斎門下の一大巨壁なり」
河村曲全に師事した大橋遅松をして、ここまで言わしめた人物がいました。
それは尾張藩士の千村伯就です。
「尾州千家茶道之記」ではたった数行の紹介ですが…。
川村曲全斎門人にして終始数寄をかえず。曲全斎門下の一大巨壁なり。
とあります。
尾張では町方商人に広く浸透した千家茶道ですが、中には武士もいたのです。これは城下町が武家屋敷ではなく、商人の町が整備されていた名古屋独特の風土かもしれませんね。
「信頼性が乏しい」と前置きしましたが、千村伯就は尾張藩士ゆえ、その実在はちゃんと証明されています。
享保12年(1727)、尾張藩士・千村氏の家に生まれますが、父・良重(夢沢)は井出氏の家を継いで井出姓を称していたため(のちに千村姓に復帰)、祖父に養われ、千村姓を称します。(ややこしいですね…)
尾張藩士として8代藩主・宗勝の小姓となり延享4年(1747)までの5年間近侍。宝暦年中(1751-64)には江戸に赴任、安永5年(1776)に職を辞しています。
伯就は父(夢沢)が京都・伏見屋敷に勤めていた幼少のころから筆を執り、後に漢詩を石島筑波、松本君山らに学び、「鵞湖」と号して優れた漢詩人、書家としての才能を発揮していたと伝わります。(父である千村夢沢も漢詩集を著作する教養人であり、横井也有などの文人と親しく交わった文化サロンの一員でした)
また明和9年(1772)には僧・月僊と出会い、月僊から山水などの画法を学び、また伯就が漢詩を教えるという間柄になります(自適園集「送月仙上人之京師小松谷序」)。このような経緯から、伯就の自画賛の作品も比較的伝世しております。絵の方は「アマチュア」の域を出ないものの…素朴で味のある山水画を描いていますね。
河村曲全との交流がいつごろからなのかは判然としていません。恐らく、曲全が没した宝暦年間に伯就は江戸で勤めていたという記録があることから、それより前(伯就が職を辞する前)から交友があったのではないでしょうか…。お勤めとして名古屋城に登城する間に城下町を通りますから、自然と商人層とのコネクションができるのも名古屋ならでは、という気がします。
職を辞してからは、書・画・茶の湯と風雅を楽しみ、自邸である自適園には雅客が絶えず訪れていたと言われます。恐らく晩年は茶の湯にどっぷりハマったのでしょうか、手造の茶器もいくつか残されています。
晩年の曲全に師事した遅松(1696年生)からすれば、自分よりはるかに年下の伯就(1727年生)といえども茶の湯の先輩にあたり、「一大巨壁」という表現は、茶の湯にとどまらず、漢詩、書画など幅広い分野の知識人として、遅松の敬服ぶりを表しているのでしょう。
武士(伯就)と商人(遅松)という、身分の違いがあるため表現に格差をつけている、と考えられなくもないです。ただ「人よっては、めちゃ辛辣にこき下ろす」遅松の傾向から考えて、やはり心底敬っていたのではないか?という気がします。
「敬う」ついでに…この伯就の手造の茶器には、後の世代の武士であり茶人でもある平沢九朗が箱書をしたためたものもあります。
尾張の武士の中でも、憧れの風流人として、後世の人々にも認識されていたと思われます。