御深井焼05-初期御深井、本当の姿は?
激動の11月。その間、ほったらかしの勉強部屋。
んー、年内に御深井焼は終わりそうも無いですね……r(・∀・;)
御深井焼の真の姿は?
前回のおさらい
名古屋城・下御深井御庭の瀬戸山で焼かれていた陶器…それが御深井焼。
典型的な例として「御深井釉の焼き物」をご紹介しましたが…どうやら初期はそれだけではなかったのでないか?
「初期の名城・御深井では、瀬戸茶入が焼かれていたのではないか?」
そんな疑惑について考察してみました。
前回はさまざまな疑惑・疑問を通じて、そんな沼地にどっぷりハマっていただきました。
いい加減なことを抜かすんじゃないよ!
と、お叱りは今のところ…来てません。(マイナーなブログでよかったぁ)
「瀬戸茶入」を話題に出した以上、どうしても「名物茶入」に触れないわけにはいきません。この際ですから、ちょっと勉強したほうがいいでしょう。
とはいえ、御深井焼の話からは逸れるので、後日、別のエントリーに分けて書くことにします。
沼の淵にたどり着いた先人たち
今回は、その沼地から脱出すべく、過去の専門家たちの考察、記録を辿ってみましょう。
まずは「原色陶器大辞典」という、分厚い辞典があります。昭和47年に加藤唐九郎によって編纂、淡交社より出版された、陶器にまつわる様々な事象がまとめられた、文字通り「大辞典」。
この辞典で「御深井焼」をひいてみましょう。
おふけやき(御深井焼) ・・・尾張徳川家の御用窯。(中略)土は以前から私掘を禁じられた祖母懐土で、器は初め古瀬戸風の黒褐釉を主として高雅なものを出したが、中頃から特殊な御深井釉が現れて別に御深井青磁とも呼ばれた。(後略)「日本近世窯業史」
「原色陶器大辞典」
という感じ。
すでにこの辞典でも名城・御深井と美濃・御深井が混同して語られています。前回までの勉強部屋を読んだ方なら、赤線を引くまでも無くわかりますよね?というか、この当時は恐らく美濃・御深井の考察が浅かったので、ざっくりまとめて言う他なかったのでしょう。
注目すべきは、前半部分。
「土は以前から私掘を禁じられた祖母懐土で、古瀬戸風の黒褐釉を主として高雅なもの」
どうやら先人たちはここまでたどり着いていたようです。ただし「茶入」という断定は避けています。
僕の書いてるチャラチャラしたブログとは違い、やはり書物として後世に残すものですから、慎重にならざるを得ないでしょう。(´д`)
ここから、さらに昔の記録を探してみましょう。
陶工が記した、当時のナマ情報
時は延宝7年(1678)。場所は四国・浦戸。
ここからある一団が本州へ向けて舟で出発します。
この中の一人、森田久右衛門は尾戸焼・初代窯元。
彼は第4代藩主豊昌に従って江戸に出府。そして大阪、京都、そして尾張の瀬戸など、各地の窯業を視察、または陶工たちの話を聞きながら、それを日記形式で記したものが、現在に伝えられています。(高知県保護有形文化財)
「森田久右衛門日記」は、江戸時代初期の各地の窯業の実情が、陶工の視点から詳細に記録された点、また江戸の茶道、芸能、風俗、社交等に関する豊富な情報がちりばめられた、貴重な資料として有名です。
この中に「御深井焼」と思しき記述が残されているのです。たった1行ですが、非常に興味深いもの。
「尾張被仰付候焼物所ハ御城の内ニ有リ茶入かま也」
森田久右衛門日記
茶入キター (*゜∀゜)=3
…鼻息荒くなりがちですが、落ち着きましょう。
まずこの森田久右衛門日記の資料としての評価。実際に「自分自身で見たこと」「旅の途中で人づてに聞いたこと」、これらが混合して日記形式で書かれています。そこに留意する必要があります。
端的に言うと、この「尾張被仰付候焼物~~~」の下りは、久右衛門が実際にその眼で見たわけでないのです。
この一文の前後を読めば分かるのですが、久右衛門が瀬戸の窯屋に滞在した際の伝聞(瀬戸の焼き物の歴史などを詳しく聞いた事)が書かれているのです。
「御城の内ニ有リ」という表現も、実情をはっきりと把握していない(いわゆる一般人の視点、御庭と御城の区別がない、御庭を含めた「御城の内」という理解だった)ことを示していると言えます。
結局、久右衛門は御深井焼の窯には訪れず、岡崎へと出立していますし、御深井の窯を実際に見たわけではないのです。
日記の成立時期、尾張藩では二代・光友の時代…。祖母懐の土を独占した時期とほぼ重なってくるのです。
そんな日記の中に、あえてといいますか、よりにもよって「茶入かま也」という表現が出てくることが非常に興味深いのです。
原本は個人蔵ですが、この森田久右衛門日記を明治期に書写したものが、Web上でも閲覧が出来ます。非常に興味深い資料ですので、読んでみると面白いですよ。
ともかく、沼地を脱出しましょ
御深井焼に残された疑問点・不審な点と、伝聞ながら当時の人物による証言。
これらを合わせると・・・「茶入焼いてたんじゃないの?」という、疑いがより色濃くなってきます。
ただ、大きな問題点が一つ。
現物(伝世品)がない!
ここなんですねぇー。(´・ω・`)
あくまで状況証拠に、古文書を重ね合わせた推測の域を出ない話。(ゆえに唐九郎も言及を避けたのでしょう)
父の話では地下鉄・名城線建設の際、物原跡地から茶入がゴロゴロ出てきた、というフワッとした話もありますが…。
「これが初期・名城御深井の瀬戸茶入だ!」と確定ランプが出せる茶入って…今のところどこにもないのです。
いや、どこかにあるはず・・・これか?それか?あれか?
そんな眼で見てみると・・・茶入の見方が変わるかもしれませんね。(`・ω・´)
分からないなりに、多方面から考え、物事を探っていく、というのも骨董の楽しみの一つでしょう。
そういう人たちが増えてくれると、こういうニッチな沼地の研究も進むかも?しれません。
初期の御深井焼についての話は、とりあえずここまで。
次回からは、この御深井焼が一時期衰退し、また盛んになっていく江戸中期~後期の時代のお話に移ります。
追記:お詫びと訂正
散々、「茶入だ茶入だ」と煽った挙句、この説は非常に脆弱なお話であること自ら証明いたしました。(涙)
前置きで十分すぎるほど予防線を張っておきましたが…案の定でした。
心よりお詫び申し上げます。
詳しくは「御深井焼12-「尾張焼」ってナンダ?その1」をご覧下さい。
『隔蓂記』寛文5年7月20日条に「尾張焼之茶入肩衝」が出てきますね。
御深井焼を指しているのかはわかりませんが…。
こんにちは。ようこそ、沼地へ(笑)
まさか、このような超マニアックな回の投稿にコメントが付くとは…。
>『隔蓂記』寛文5年7月20日条に「尾張焼之茶入肩衝」が出てきますね。
初耳です。そして、驚いています。「どこかの史料にそういう記述があるかもしれない」という予測はしていましたが…まさかこんな重要な史料の中に「尾張焼」が出てくるとは…。
僕自身が隔蓂記を詳細に調べていないので、断言はできませんが…大いに関係があると思います。年代的にも、尾張藩主・光友の治世と、森田久右衛門の旅した時代にビタッとハマる史料なので、思わず鼻息が荒くなっちゃう感じです(笑)
初期の御深井焼(尾張藩の焼き物)は「当時だと、まだ御深井焼とは呼ばれていなかった」という予測にも合います。これが「瀬戸」ではなく「尾張」という表現になっているのが、とても興味深いです。僕自身も隔蓂記を調べてみることにします。
たいへん貴重なご意見、ありがとうございます!
また何かお気づきのことがありましたら、お気軽にコメントしてくださいね~。
そしてよかったら、お店にも遊びに来てください ヾ(´▽`*)