尾張茶人名鑑:香西文京

去の勉強部屋の《書き直し》です。
ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。
宮町の医師
香西文京(ぶんきょう)は、名前が文献によっていくつかあり、元は「正木」の姓を称していたのが、後に「香西」になったという記述もあります。
「正木」という姓ゆえに「正木惣三郎・伊織の親子」と混同されやすいです。活動してたいた時代は「江戸中期(香西文京)」と「江戸後期~幕末(正木親子)」の違いがあり、正木親子は尾張藩に仕えた「武士」なのに対し、香西文京は「医師」という違いがあり、まったくもって別人です。
こうした混同が起きやすいため、「香西文京」という名前を個人的に強く推奨しております。
名前も「文京」のほかに「風禅(ふうぜん)」という号も知られており、「正木風禅」という呼称で呼ばれていることもあります。さらにこの他に「貫龍」「吉堂」という号が知られており、これも香西文京の用いた号です。
医師を生業として、名古屋城下の宮町(現在の伝馬町通・中区錦3丁目~東区東桜の一部)に住んでいたと「金鱗九十九之塵」が伝えています。
尾張の文人・茶人である千村伯就による「自適園集」の作品の中にも、「友人 醫生 正木文京」という一文があり、伯就(1724-1790)とは同時代(同世代?)で交流があった人物だと考えられます。
また「国焼のしるべ」では、晩年の二階堂昇庵(1675-1756)も香西文京と交流があったと伝えていますが…果たして?(※「国焼のしるべ」がどこから引用しているのかが不明。原典に当たれていないので、どこまで信用できる話なのかがわからんのですが……昇庵も生業は「医師」ですからね。あながち間違いでもなさそうな…そんな感じはします。)
「金鱗九十九之塵」によれば「千家の茶を好む」とあり、この人も例にもれず、江戸中期の尾張における茶の湯文化の隆盛の波に乗って、お茶にどっぷりハマった茶人の一人だと思われます。
活動年代が前後する可能性…?
文京の詳しい生没年は分かっておらず、「安永(1772-1781)~天明(1781-1789)の人」と伝わっているに留まります。茶人年表データでは便宜的に「1720-1800」としてありますが…これは前述の【伯就と友達、近しい世代か…?】【昇庵とも交流がある、らしい…年はやや離れてる?】という事象を鑑みて、妥当性がありそうなかな~という程度の、極めて根拠の薄い、個人的な推定ですので…ご注意ください。
『金鱗九十九之塵』の著者である桑山好之(生年不詳-1854 年没)は、宮町に住んで大八車の製造販売を行っていた職人であり、自らが居住していた町内関連の記述はやはり充実しております。その割に文京は「茶道」の項目で人物ジャンルが立てられており、「医師」であることの言及がなかったり、「正木文杏」という表記になっているのも、これか書かれた時点ですでに文京は没しており、身近な人たちからの言い伝えを書き起こしていると想定すれば、ある程度納得はできます。
ただ…個人的にすごく気になっているのが「『尾州千家茶道之記』に一切言及がない」ということ…。著者の大橋遅松曰く「我が見分の狭ければ漏脱の多からん。」とのこと…単に「抜け落ち」という理解をする他ないのですが……さて?
【安永3年甲午年(1774)】の奥付のある『尾州千家茶道之記』に何故か言及がなく、【天保末~弘化頃(1840~48)】の成立と推定される『金鱗九十九之塵』には身近で濃い目の情報が載っている、ということをどう捉えるか…?昇庵との絡みが「国焼のしるべの誤り」であるとすれば、もう少し活動年代が後ろにズレる気がしていますが、何一つ確証がありません…。
瀬戸の技術発展に貢献した一人…かも?
武士でもなく、商家の旦那でもない文京ですが…手造の茶器が比較的多く残されている「余技作家」の一人でもあります。
文京の作品は実に多岐にわたり、茶碗、水指、茶器、香合…など、茶器が大半。釉薬は瀬戸お得意の鉄釉(瀬戸釉)、志野、黄瀬戸、織部といった「桃山写」の類から、コバルトを用いた呉須系の釉薬まで、かなり多彩なバリエーションがあります。
これは相当、作陶にハマったのか、多数の茶友たちから製作を頼まれたのか、あるいはその両方か……?いずれにしても、作品のクオリティ、土の特性を鑑みるに、「瀬戸」へ赴いて作陶をしているのは想像に難くありません。いわゆる「楽焼」のように比較的簡単にできる焼き物ではなく、粘り気のある良質な陶土を用いて、しっかりとした高い火力で焼成する窯で焼かれた”瀬戸モノ”なのです。
文京の生没年は定かではないし、見心のように「関わった陶工が分かっている」わけでもないので、あくまでも推測の域を出ない話ではあるのですが…1700年代後半(1750~1800ごろ)、瀬戸では「桃山写(志野・黄瀬戸・織部)」をある程度のレベルで再現できる技術(釉薬調合・窯での焼成加減)を備えていた…という、印象を抱きます。
これは1802年に加藤春岱が生まれる前の話です。春岱の名工エピソードとして「多種多彩な釉薬を自在に扱う名工」というような謳い文句がありますが…その「下地」となる瀬戸の多彩な技術は、恐らくこの時代(尾張で茶の湯が流行、茶人たちが茶器を求め、瀬戸まで造りにやってくる時代)に茶人たちからの指導や要望によって培われていた、という認識をしています。
細工物の嚆矢
文京の多彩なバリエーションの作品中に、特筆すべき特徴のある一群があります。それは小さな塑像作品、俗に「細工物」とか呼ばれるものです。
人物や動物を模って、香合の装飾として用いる塑像作品は、尾張だと「正木惣三郎・伊織」の親子による黄瀬戸香合が有名ですが…それよりも先行する作例を文京はいくつか作っています。
文京が活動した後の時代にも、尾張の茶人による余技として作られた細工物はありますし、御深井、瀬戸、常滑などの窯元でも小さな塑像作品が作られていることを見ても、茶人たちの間で細工物が流行っていたこと、またその火付け役が文京だったのかな?とも推測します。

